HERO(英雄)

主演 / ジェット・リー、チャン・ツィイー
映画は『作る側と観る側の対決だ』この映画を観て初めてそういうことを感じ、考えさせられた。作る側、監督チャンイーモウと見る側、私との対決。この映画、英雄というタイトルに対して一般的には主役の「無名(ウーミン)」が英雄として取り扱われているのであろうが、ラストシーンの暗示的な場面では取りよう、受け止め方によっては秦の始皇帝が英雄だと受け止めることができる。銀幕の向こうで、監督の「さあー、かかって来い。おまえはどう捉えることができるのだ!」という声が聞こえてくる。見る側のこちらも思わず「英雄は誰だ!」と答えたい反面、深く考えさせられる。たかが映画されど映画。一本の映画に名作(文学作品)のような読後感を与えられて、爽快感が残る。
 奇しくも、筆者は「天に導かれるが如く」この作品の主要登場人物である秦の始皇帝の存在した中国の昔の都、長安(現在は西安)に2週間後訪れた。ここは監督の出身地でもある。奈良の都の原典ともなった所で、悠久の歴史を訪れる者に感銘させる「いにしえ」を感じさせる土地だ。その郊外には1976年に発見された兵馬俑があり、何十万という兵馬俑がある。これは時の「王」が死せる時、配下の兵も忠誠を尽くして死を遂げるという慣わしに対して、流石にそれでは大変だというので兵馬俑を作るようになったという遺物だ。忠臣蔵は日本人的思考かと思いきや、その昔、紀元前の遥か昔にそのような思想・価値観があったということは、中国・韓国・日本はやはり、仏教・儒教をベースにして一つの精神文化があったとのだ思われる。「あった」という言い方に寂しさを覚える。勿論、そのままの形で残るのは時代錯誤も甚だしいと言わざるを得ないが、混沌と混濁していく21世紀の人類の精神風土を予測するに、「想いの伝承」として遺しておきたいと思うのは、センチメンタルな筆者の感傷だろうか。
 映画も小説も、芸術としてとらえることが可能だろう。そこには見る側の主観が大きく左右する。勿論、全てがそうではないし残念ながらそうでない作品の方がはるかに多い。ある対象物があって、それそのものには本当は「何の価値観」もない。価値観を見出し、創出するのはすべて人間その人の主観だ。その主観はその人の心であり、その人の感性である。主観・心・感性は果たして教育で育てられるものなのだろうか?教育という言葉を使うからややこしくなるのかもしれない。学習効果という言葉に置き換えれば、学ぶということによって主観・心・感性は育てられるであろう。いつの時代にも「英雄」の存在はある。弱い人間のよりどころとして、英雄・偶像の存在が人の心に必要不可欠なのだろう。今、子供たちはその英雄を待望しているのかも知れない。塾という学習効果を求める場所に、身近に「小さな英雄」がいて欲しい。そして、その英雄に勉強を教えて貰えたら、どんなに素晴らしいだろう。そんな夢を見させてあげたい。週に2,3回、塾に行くと「My HERO」会える。そう思う生徒がいたら、英語・数学なんて卑小なものに化してしまう。教える側の「英雄観」の問題だろう。「人はヒーローになるために生まれてきた」みんな英雄に憧れ、自分もまたいつの日か英雄になりたい・・・。子供たちのささやかにして広大な祈りの声が、虫の音のように微かに聞こえてくる。