世界の中心で、愛をさけぶ
主演・大沢たかお・柴咲コウ
最低。最高の駄作。映画において、「セリフ」は命だ。そのことばの意味。演技者の言葉遣い。言葉の言い回し。最初の出演者。演技者のセリフ。これでその映画のイメージが決定されてしまう。小説家が書き出しに命を懸けるように、映画も同じように思われる。
この映画はプロローグがあって、最初の数分で5名の役者が登場した所で幻滅を感じてしまった。原作の小説も、この映画も「300万?」というから、この誌上ロードショウに取り上げざるを得ないかなあと思いつつ、ある種の「予感」があったのだが悪い方に見事に当たってしまった。本来、この書き出しであれば取り扱いしない方が好ましいのだが、敢えてお許し願おう。監督は映画界出身なのかTV界出身なのか不明だが、脚本家はトレンディドラマの隆盛を築いた人らしい。入場料を払わないTVであればトレンディのドラマ仕立てで結構だ。しかし、映画とTVを同一視された脚本では映画ファンにとってはたまらない。
売りは「純愛物語」、原作はまずまずの作品で書評どおり、一気に読ませるものはあった。しかし、余情・抒情という点では文学の域には達しない。その映画化だから目くじらを立てていうのもおかしいのかもしれないが、矛盾が多すぎる。原作の一つ上を狙いすぎてコケテしまった。
舞台は四国、高校時代の回想シーン。標準語というか共通語で会話がなされるのに凄い抵抗感があった。他の役柄であれば結構好い線が十分に期待できるヒロインの長澤まさみは、広末涼子に負けず劣らずの、甘ったるいセリフの言い回しで四国の海臭い舞台に完全に遊離していた。まして、白血病で死んでいく少女の役としてはあまりにも都会過ぎて、その衣装も可愛過ぎて、健康的過ぎて「死」に直面した悲壮感を超えた辛さ,切なさが微塵も感じられなかった。原作にない婚姻届を見せるシーンなどは、観客の受けを狙ったのだろうが、本当に愛しているのであれば決してあんな行為は取れない。同情のお涙頂戴にしても原作が死んでしまう。彼女の死から抜けきれない男が結婚をしようとはしない。律子への同情であれば、これほどの侮辱はない。随所に見られるお涙頂戴シーンは、作者の創作心でなく、トレンディな受け狙いが見え過ぎ。娯楽映画なら許せるが、当たればいいという映画作りであるとするならばあまりにも悲しい。白血病・死・純愛をテーマにしていて、コンドームを簡単に小道具に使う製作者にも?が付く?
山崎務の存在感が唯一の救い。柴咲コウも良かったがTVでは合格でもスクリーンになると物足りなさが目立つ。原作を過剰意識し過ぎて、原作をアレンジした部分で作品を駄作にしてしまった。原作と映画の論評は永遠の課題だ。小説と映画は違う。映画は映画でないといけない。ここの良さがあってどちらもいいというのが望ましい。300万人が見て受けた?のだから、映画おじさんが御託を並べる必要もないのだろうが、残念である。
本物志向。これが大事だ。トレンディはトレンディでしかありえない。塾教育が金儲けのためにトレンディに走ってしまったら大変だ。それは「廃る」という道を歩むことになる。塾が廃ると、今の公教育だけではなお問題だ。創る・育てる・実践するという行為は地道な取り組みがあってこそ継続され成果が生まれるものだ。