ターミナル
主演/トム・ハンクス
「《キャッチミーイフユーキャン》の後に、何かもう1本映画を作っておきたいと思いました。歴史に残るような作品ではなく、重大な“問題”を抱えたものでもない。人々を笑わせて、泣かせて、人生っていいものだなあと思える作品を。にっこりと人々を微笑ませる作品を、撮りたかったのです。今の時代だからこそ、私たちはもっとスマイルを浮かべる必要があり、映画というのは、困難な時代を生きる人々を微笑ませる役割を担っているからです。自分もビクターに似ているようなところがありますが、誰もが、一度は人生の中で、ビクターと同じような気持ち――帰る場所のない人間が、自分の本当の人生を探すような気持ち――を経験することがあるでしょう。」スピルバーグのこのコメントを聞くと、流石だと肯かざるをえない。
彼の監督作品ということでどうしても秀作を期待してしまうのだが、狙ってこのような作品を作り上げる所に、彼の才能が改めて認識させられる。年齢的にも57歳というから、脂の乗り切ったバリバリで、これから10年は気力も充実して大いに楽しみな所である。彼は映画的な言葉でのみ表現できるものをとらえ、映画的な方法でのみ把握できるものを確実に映画にするというところで天才だろう。映画を愛し誰よりも映画が好きな男が、映画好きの人のためにいろんなジャンルの映画を作る。それが傑作を生む所以なのだろう。
トム・ハンクスとキャサリン・ゼタ=ジョーンズの共演が秀逸。特に《シカゴ》でアカデミー助演女優賞を獲ったキャサリンの芸域、幅の広さに脱帽する。トム・ハンクスはある面で代わり映えしないというのが、率直な感想だ。脇役人が凄い。本場アメリカとはいえ、何人の俳優がいるのだろう?そして、その俳優の卵たちが何万人といるのだろうと予想される。映画界に一流の人材が揃っていて、製作の根本からが日本と違うのだろう。映画はやはり銀幕が表舞台だ。裏の製作や脚本や原作が良かったとしても、それを演じる表の俳優、特に主演よりも脇役の演技、キャラクターが大切だ。日本映画のように歌手やタレントを使って誤魔化すようなことがアメリカ映画にはない。ミスキャストが映画そのものを台無しにしてしまうこと、それを観客が許さないという姿勢が、ひいては映画をよくしているのであろう。
ターミナルの舞台になったのはニューヨークのJFK国際空港。何度となく訪れたことがあるが、ここは到着地点であり、出発地点なのでゆっくりと時間を過ごしたことがないので、この映画の舞台になるような広さを私は知らない。これからの海外旅行では、一つのターミナルとして、そこにあるそれぞれの人間の物語を傍観してみたい、そのように思わせた映画である。
塾の教室も一つの舞台だ。1時間という授業時間と教室という舞台設定の中で、教師がどのようにプロデュースしていくかである。生徒たちを観客として、教師が自作自演しプロデユースして、面白いもの、納得するものを作り上げていくか、それが勝負だ。観客としての生徒は入場料を払っているお客さんであることを忘れてはならない。「教師は役者であれ」この言葉も死語にしてはいけないと思う。