01.夢人日志
沖縄そば
かつをとソーキ味
シママース使用
期間限定
マルちゃん東洋水産株式会社
インスタントでも食べれたら嬉しい
歴史 [編集]沖縄で小麦粉を原料とした麺料理が広く知られるようになったのは明治後期以降のことであり、本土出身者が連れてきた中国人コックが那覇の辻遊廓近くに開いた支那そば屋が、今日の沖縄そばの直接のルーツであると考えられている。したがって本土のラーメンと沖縄そばは、先祖を同じくする兄弟のような関係にあると言える。
街中にそば屋が増え、一般庶民が気軽に食べられるようになったのは大正に入ってからのことであるが、当初は豚のだし(清湯スープ)をベースにした醤油味のスープで、具材も豚肉とネギのみと、日本本土の支那そばと変わらないものであったようである。その後沖縄県民の味覚に合わせた改良が重ねられた結果、スープは現在のような薄めの色となり、今日にまで繋がる三枚肉、沖縄かまぼこ、小ねぎを具材とし、薬味として紅しょうがやコーレーグス(島唐辛子の泡盛漬け)を用いるという沖縄そば独自のスタイルが形成されていった。支那そばと並んで「琉球そば」という呼称が用いられるようになったのもこの頃のことである。
木灰そばまた現在は一般的な中華麺と同様に、麺の製法は小麦粉と塩水、そしてかんすい(鹹水)が用いられるが、当時はガジュマルなどの亜熱帯の樹木灰を水に入れた上澄み(灰汁(はいじる))が利用されることが多かった。このような伝統的な製法の麺は、今日では特に木灰そば(もっかいそば)と呼ばれている。灰汁は琉球染めにも利用される身近なアルカリとして一般に用いられてきた経緯がある。
こうした老舗の店も、戦時中の食糧不足と沖縄戦によってすべて消滅したが、米軍占領下で小麦粉が豊富に出回るようになってからは次々と復活し、また戦争で寡婦となった女性たちが新しい店を立ち上げるなどして、戦後沖縄を代表する軽食として急速に普及していくこととなる。店の数が増えるにともなって、それぞれの店がさまざまな具材や、鰹や昆布を用いた和風の出汁を用いるなど競い合って工夫を凝らし、県民食として発展していった。またその一方で、ガスの普及に伴って麺打ちに使われる木灰の供給が減少したこともあって、かんすいを使用した大量生産の麺が一般的となり現在に至っている。
近年まで戦後の日本本土のラーメン文化の影響を受けることのなかった沖縄県では、復帰前の1970年頃にはすでに大衆食としての「すば」が定着し、上記の代表的なスタイルや、後に誕生する大ぶりのソーキを具にしたソーキそばは沖縄料理の定番となった。こうして生まれた沖縄そばは、沖縄本島に定着する過程と同時、あるいは相前後しながら、宮古諸島や八重山諸島、その他の島々へも広がるに至っている。
年譜 [編集]1902年(明治35年) 沖縄県初の「支那そば屋」とされる観海楼が開業。経営者は宮崎県出身の福永義一という人物であった。店を任されたのは大阪の支那料理屋から招聘された辮髪の清国人で、『唐人そば』という通称で人気を博す。
1905年(明治39年) 観海楼の従業員であった比嘉牛(ウシ)が独立し、比嘉店を開業。『ベェーラーそば』と呼ばれ、唐人そばと人気を二分する。
1913年(大正2年) ウシンマーそば開業。細切りのカマボコを具として初めて使用し、薬味に用いたピパチの辛味が人気を呼んだ。八重山そばの原型であるとされる。
1916年(大正5年) 支那そばの表記を『琉球そば』に変更するよう当時の那覇警察署長が指導。
1920年(大正9年) ゆたか屋開業。ゆたか屋はこの4年後に紅しょうがを導入。さらに塩味で透明なスープの開発にも成功し大評判となる。後に「毎日2000杯を売る」伝説の名店として語り継がれる井筒屋も同じ年に開業している。
1925年(大正14年) 新山食堂開業。現在も名護そばの名店として営業している。
1929年(昭和4年) 万人屋開業。そばの他に太巻き寿司やいなり寿司を出し人気を博す。サイドメニュー展開の元祖的存在。
1945年(昭和20年) 沖縄戦によりすべてのそば屋が壊滅する。
1948年(昭和23年) 那覇の神里原や平和通りなどを中心に大衆食堂が増え始める。期を同じくして井筒屋や万人屋、三角屋といった戦前の名店も続々と国際通り周辺に店を再開させる。
1950年代中頃 製麺所からゆでめんのそばが売り出される。これにより、それまですべて自家製手打ちだったそばが、一般家庭でも気軽に味わえる日常食となった。
1960年代 ガスの普及による製法の旧態化、既成麺の台頭、店主の高齢化などにより、旧来の老舗そば屋が相次いで廃業し、世代交代が進む。
1972年(昭和47年) 本土復帰。日本そばと区別するために、『沖縄そば』の呼称が用いられるようになる。
1975年(昭和50年) 名護でソーキそばが誕生。元祖は我部祖河食堂(創業者:金城源治2010年4月現役)。最初にメニューとして出したのは、丸隆。以降沖縄そばのバリエーションが広がる。
1976年(昭和51年) 沖縄総合事務局公正取引室より沖縄そばの名称についてクレームがつく。
1978年(昭和53年) 『本場沖縄そば』の表示が特殊名称として登録許可される。
1987年(昭和62年) 沖縄そばの本土移出認可。
1997年(平成9年) 沖縄生麺協同組合が10月17日を『沖縄そばの日』に制定。
2006年(平成18年) 『沖縄そば』の表示が、沖縄生麺協同組合の地域団体商標として登録される。