用高さんの多運星美







僕(ボク)心来(シング)
勝利への僕の心が来る

僕(ボク)志(シ)運(ン)具(グ)
僕の世界への堅い志と幸運を具(そな)える
世界への志と幸運が僕(しもべ)となって来る

朴(ボク)志(シ)運(ン)具(グ)
純朴・素朴な志と幸運を具える


今日は具志堅用高さんの誕生日です
30年来、お月愛をさせて頂いています
素顔の用高さんは繊細でとても気づきのある方
頭の良さは、TVではわからないでしょうが
素晴らしいウチナンチューマインドのある方です
塾生120人のTシャツにサインして頂いて、僕もサインして頂いた後
用高さんが、僕にサインを求めて下さいました
僕が生まれて初めてサインした人です
これこそ、彼の人となりを物語るエピソードです
まだまだ、いっぱいありますよ~


沖縄県石垣市(石垣島)生まれ。具志堅親雲上用易を元祖とする允氏具志堅家は名乗り頭が用である。地元の中学卒業後、沖縄本島に渡り興南高等学校に入学。上原康恒の実父上原勝次や金城真吉、仲井真重次の特訓で天性の素質が開花。3年次でインターハイ・モスキート級優勝。同校卒業後に上京する。拓殖大学商学部の体育推薦入試に合格していたが、入学を辞退し協栄ジムに入門。

1974年5月28日、プロデビュー。

1976年10月10日、9戦目で世界初挑戦。山梨県甲府市の山梨学院大学体育館にて"リトル・フォアマン"の異名を持つWBA世界ライトフライ級王者ファン・ホセ・グスマン(ドミニカ共和国)に挑戦。挑戦者・具志堅が開始当初から軽快に動き回り、2回、4回にダウンを奪う。7回、3度目のダウンを奪ったところでKO勝ちとなり、沖縄県出身者初の世界王者となった[2]。試合後「ワンヤ、カンムリワシニナイン(自分はカンムリワシになりたい)」と話したことから「カンムリワシ」の異名がついた。なお、9戦目での世界王座奪取は当時の国内最短記録となった(現在は井岡一翔の7戦目)。(世界王座防衛13度は日本人世界王者の最多記録で、現在も破られていない)