『マッチ』 永井龍男
学生が、やがてその一本をすりつけると、前の老紳士はちらりと眼を向けた。こんな若者まで、喫煙の習慣を身につけたものかと、老紳士は思ったようである。―しかし、彼はタバコを吸うのではなかった。二本、三本、指先で燃えるマッチを見つめてから、また参考書に目を移した。
「君・・・」
と、老紳士が学生に声をかけたのは、それから二、三十分たってからだった。つまり、その間に二十本近いマッチが学生の手で空費されるのを、ついに老紳士は見かねたのだ。不意を突かれてびっくりしたらしい学生に、マッチというものが戦争中から戦後へかけて、どんなに大切な物であったかを、老紳士はこんこんと説いた。
現代の若者をたしなめるのは危険をともなう行為の一つだというが、幸いこの学生は、老紳士の言葉をもくもくと聞いた。老紳士は、その沈黙に反省の気配を感じるように思ったらしく、ポケット・ウィスキィーを傾けて一睡することにした。
旅行者らしい荷を持たない学生が、夜が明けたばかりの駅に降りていった。そこからは、さらに支線が連絡されていた。
―目を覚ました老紳士に、前の席の女客が、例の学生に託されたと言って、ノートの裂いたのを手渡した。
こんなことが記されてあった。
ボクは、母危篤の報を受け、国へ帰る一高校生です。注意をありがたく思っています。
苦学生活で、予定の外の金を作るのに苦心しました。往復の汽車賃と、パンとキャラメルをかうと、借りた金は残りませんでした。
いらいらする気持ちをまぎらすつもりで、宇都宮駅で最後の金でマッチを買ってみたりしました。そのほかの物は買えなかったのです。そのうちに、一回こすってマッチがつくかぎりは母は生きていると、心の中でかけを始めたわけです。するのは、とても恐ろしい気がしました。そのとき、注意を受けて、どきんとしました。
こんなことを記す必要はないのですが、書いているうちは、気がまぎれるのです。
では、さようなら。
朝日が、まぶしくさし込んだ。気難しい顔の老紳士だが、なみだもろいたちらしかった。