掌編小説





『ぬくもり』  

尼崎の大島郵便局の斜め向かいに「一心」という食堂が、60年前の面影を残して、そのままあった。のれんをくぐって店に入って、進はびっくりした。
あのおばちゃんが、そこに立っていた。
「どうしたんですか?大丈夫ですか?」
「60年前、終戦の2年間、この近くに住んでいた熊本進といいます」
「ああ、ハナは私の母です。10年前に亡くなりました」
「昔、困ったときに助けてもらったものです」
「この度、ご縁があってこちらに来ました。もしや生きておられたら一言お礼を申し上げたいと思って訪ねてきました。」
「そうですか?それは、それはありがとうございます。どうぞ、よかったら、お線香の一本でもあげてやって下さい。母も喜ぶと思います。」
進はお仏壇の前で、じっと手を合わせて合掌した。目頭にぬくもりを感じるものがあって、ひとしずくの涙が畳の上にぽとりと音を立てて落ちた。
給料日の前々日から、どうしてもお金が無くて、店の近くの公園で水を飲んで耐え忍んでいた。腹を膨らませるのにごまかしてガブガブと水を飲んだ。過度の空腹に飲む水は苦しくさえあった。それを見ていた。ハナおばちゃんが声を掛けてくれた。
「兄ちゃん、あんた名前は?あんたもしかしたら沖縄の出身か? 私は宮古の出身なんやで、あんた、お腹、空いてるんやろ。ウチは食べ物屋や、こんなご時世やけど 何とか食べるものはある。ちょっとウチについておいで!」
フラフラで倒れそうで、何を食べたのかも記憶がない。ただ、温いもん(ヌクイモン)が、まるで母のようで、60年たった今も、ぬくもりは残っている。