伊是名島と伊平屋島




http://tesewya.ti-da.net/e3642348.html 写真は手縫家さんのブログより

クマヤー洞窟(田名)
江戸時代の考証的国学者藤井貞幹(藤貞幹)が『衝口発』(1781年)の中で日本神話の天の岩戸をクマヤー洞窟、神武天皇の出生地が伊平屋島との説を唱え、本居宣長と論争となった。現在では藤井説は偽書に基づく虚構とするのが通説。ただし、「クマヤー」には琉球方言で「隠れる」という意味があり、昭和期になっても本土からこの説に関心を持つ民俗学者や神道関係者が訪れている。洞窟自体は県の天然記念物に指定され、毎年12月に岩戸開きの祭りが行われる。広さは約2000m²で2室に分かれ正面に小さな社殿が鎮座しているが、この社は本土から訪れた神道関係者が作ったとされる日本神道式のもので、現地住民の手によるものではない(琉球神道では社を尊崇しない)。


伊是名島
地理 [編集]沖縄本島辺戸岬の西約30kmに位置し、有人島の伊是名島、無人島の屋那覇島・具志川島・降神(うるがみ)島の4島からなる。

歴史 [編集]昭和14年(1939年)7月1日の分村許可司令により伊平屋村から分村して成立。

伊是名島は、琉球国王第二尚氏の始祖尚円(金丸/かなまる)の生まれた島として有名である。

沖縄貝塚時代の前半(縄文時代にあたる)時期の遺跡が多く、特に貝塚時代前半の伊是名貝塚からは竪穴式住居や土器などがみつかっている。また、北側にある具志川島遺跡群ではオオベッコウガサガイ製の腕輪(貝輪)をはめた人骨が県内で初めて発見された。

琉球王国期には、伊是名島、伊平屋島は琉球王統発祥の地として王府直轄領とされた。そのため行政区としては王府の聖域が多く存在する本島南部の島尻郡に属され、現在に至る。

2008年総務省まとめで、2007年度決算が自治体財政健全化法における早期健全化団体に相当する状態であると公表された。本法施行後の2008年度決算が同様の状況であれば、早期健全化団体に指定されることになる。





伊平屋島
歴史 [編集]明治42年(1909年)の島嶼町村制施行により成立。ただし村政の中心である村役場は伊是名島に置かれた。 昭和14年(1939年)7月1日の分村許可司令により伊是名村を分村。単独村政開始。

最も古い遺跡は縄文時代前期にあたる久里原貝塚で、発掘調査からヒトが継続的に生活していたことがうかがえる。

琉球王国期には、伊是名島、伊平屋島は琉球王統発祥の地として王府直轄領とされ、そのため行政区としては王府の聖域が多く存在する本島南部の島尻郡に属すことになった。これが現在も続いている。このため、南西諸島の北緯27度以北の有人島では唯一、奄美群島の本土復帰時に返還されなかった(硫黄鳥島は無人島)。

2005年7月に伊是名村との新設合併による新「伊平屋村」発足を目指したが、伊是名村で合併の是非を問う住民投票の結果、反対多数となり合併を断念した。





伊是名島は
天の川ではなく天の河です
満月の日には屋那覇島で天海の二つの満月が観れます
<西口は伊是名島観光大使です>