コンスタンティン
主演/キアヌ・リーブス
『この映画は、数百本に1本の、時代を動かす作品になるかもしれない』パンフレットの解説書にはこう書かれている。何に対してそう言っているかは定かではないが、筆者にとっては意味深長な作品であった。天国と地獄、その間にある人間の世界。天使と悪魔、人間はその両面を持って生きているのだろうか?そんなことを考えさせられた。天使も悪魔も人間界を侵犯しないというルールで生きているらしい。それが乱れてきて、今、悪魔が人間の心の中に侵入してこようとしている。日本をはじめ世界中の一部の悪い人たちを見ていると、そういわれてみると納得してしまうほどに悪事が横行している。この映画では天国の場面は映し出されていないが、地獄の場面は随所に見せられる。これは製作者の意図なのであり、警告なのかもしれない。
キアヌ・リーブス演じるジョン・コンスタンティンがその悪魔と戦う。この映画は単純な勧善懲悪のストリィーではなく、いろいろなこと、これからの世界について、人間について考えさせられるものが多い。「父と子の御名の聖霊において」という言葉が、とても気になるぐらいに数度繰り返されたが、欧米にはこのような言葉がある分、悪事に対しての制御装置としての働きをする言葉があるが、今の日本には、念仏を唱える。その言葉を使うことによって悪事に対して制御したり、理性的な判断・行動をさせる言葉というものがない。これは、これからの時代においてはとても大事なことのように思われる。例えば、仏教で使われる、「南無阿弥陀仏」、これを唱えようものなら胡散臭く思われ、格好悪いと思われかねない。ポジティブな愛言葉が日本人にはないことに危惧するものを感じる。想いにしても言葉にしても「信じる」ものがあるのとないのとでは、精神の安定においても、もっと身近なストレスのことを考えても雲泥の差がある。今の日本も世界も、言葉が乱れ水が汚れ、それに正比例して人の心も乱れきっているように思える。良化する兆しがないところに大いなる怖さを感じる。この映画でも『水は全てに繋がっている』といセリフにドキッとさせられるものを感じた。この地球は水に囲まれている。人間の体の70%は水と考えることができる。基が汚れれば当然、思想も言語も行動も乱れていく傾向になってしまうだろう。2005年、21世紀の千年紀の前後10年として、世界が廃れて来ているよな気がしてならない。昔、むかし、そのムカシの社会は経済が基盤ではなかったので、今日のようにお金がオールマイテイではなかった、その分、思想などが人心を動かしていたとも言える。今世紀の課題は「精神と物質の戦争」の世紀かも知れない。
思考の原資は言葉だ。言葉の乱れは、当面の生活にはなんら影響は内容に思われる。それは形として、はっきり見えないからだろう。精神と物質の戦いが始まるならばこそ、教育の重要性が尚更のこと問われて来るはずだ。受験戦争という言葉は使わないようになってきたが、今、そして、これから塾が何をするべきか。ターニングポイントにさしかかっているのかも知れない。歴史は、後になって語られ、後になって評価される。私達は時の証人として、今、何が大事なことなのかを「美しい言葉」で把握しなければならない。
歌を忘れたカナリアは捨てられ、言葉を軽視した国民は主体性を失う。