01.夢人日志
『菜の花の沖』
我が東京の友人が龍馬を訪ね、東大阪の司馬遼の記念館を訪ね
次に行きたいと言ったのが、淡路島の高田屋嘉兵衛の生家だった
機会に恵まれず、次回のチャンスに延期したが・・・
ブックオフでこの本が僕の目に飛び込んで来た
「読みなさいと言うことだろう」
渡辺淳一の本はシールに800円て貼ってあったが
100円コーナーにあったので、店員さんは100円にしてくれた
このCSをわきまえた女店員さん あなたは素晴らしい!
<あらすじ>
嘉兵衛は明和六(一七六九)年、淡路島の都志本村(現五色町)の極貧農家の長男として生まれる。(六人兄弟すべて男)十一歳のとき自らの意志で奉公へ。二十二歳のときに兵庫(神戸)に出て、水主(かこ)となる。寛政四(一七九二)年、二十四歳で、ふさと結婚。やがて沖船頭(船の責任者)となり、冬の荒海を紀州の新宮から江戸まで、材木を筏ひとつで運搬したこともあった。兵庫第一の廻船問屋・北風荘右衛門の信頼を得たことも力になり、二十八歳で千五百石積みの巨船「辰悦丸」を建造、念願の独立をはたす。その年、嘉兵衛は真新しい辰悦丸で蝦夷地へ向かう。辰悦丸による兵庫との往復は年一回だったが、その利益は大きく、二年後には持ち船が五隻になっていた。
寛政十一(一七九九)年、幕府が東蝦夷地を直轄地とした。嘉兵衛は安全な航路を開拓したり、新たな漁場を開いたり、アイヌの民に漁法を教えたりした。その功により、三十三歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。
ちょうどその時、ロシアは南下政策に伴い幕府へ交易の申し入れを迫ったが、その返答は意味もなく引き延ばされ、業を煮やしたフヴォストフ海軍大尉などの日本人に対する暴行事件が起こる。幕府のロシアへの感情は悪化し、結果的に観測船ディアナ号を拿捕する事件へと結びつく。世に言うゴローニン事件(文化八年)である。文化九(一八一二)年、嘉兵衛はゴローニン事件に巻き込まれ、ロシア船ディアナ号のリコルドに捕まり、カムチャッカへ連行される。日本とロシアの間で起こった事件解決のため、その人質とされたのだ。異国ロシアでの拘留生活が生む苦悩と葛藤、仲間の死。しかし嘉兵衛は、これまでの人生の中でつちかった「みな人ぞ」の精神で、ロシア人たちと接し、互いの心の壁を溶かしていく。そして嘉兵衛はリコルド少佐といつしか強い信頼で結ばれるようになり、こじれきった日露の橋渡しを自ら担おうと決意する。見事な交渉で日露の紛争を平和裡に解決。幕府との交渉のため日本へ発つ日、甲板で鈴なりのロシア人船員たちがいっせいに声をあげる。「タイショウ!ウラー!」嘉兵衛は荒波の交渉へと乗り出していく。のち、郷里・淡路に帰り、隠居。文政十(一八二七)年、五十九歳で波乱の生涯を終える。