01.夢人日志
何来無差(なんくるないさぁ)
イチロー・松井秀喜・宮里藍。プロスポーツ界で活躍する若者達である。彼らには共通するものがある。礼儀が正しい。言葉遣いがいい。明るく溌剌としたイメージがある。これは「若さ」の美しさだ。中でもプロゴルファーとして18歳でデビューした宮里藍は好感度が高く実にさわやかである。NHKのインタビューに答えて、健康的な少女美をもって美笑を絶やさずに彼女がいった言葉が「なんくるないさぁ」である。沖縄のウチナーぐちで、微妙なニュアンスは掴めてないかも知れないが、「何とかなるさ」「ケセラセラ、なるようになるさ」に近い意味であろうか?それに私が漢字を当てはめた。
「幸が来ても、不幸が来ても、何が来ようが、天から見れば大差は無い」沖縄の人、ウチナンチュと呼ばれる人は、一般的におおらかである。拘りがなく、屈託がないといわれている。諦めやすく粘りがないとも言われる。
どちらも正しいようでどちらも正しくないように思える。県民性でひと括りにすることが乱暴ではあるが、気候風土が人に与える影響は大きい。日本で唯一亜熱帯地方に属する美ら島は、単純に言うと暑い。そして、見逃せないことは「台風」という天災だ。サトウキビをはじめ、丹精を込めた農作物、生活の糧となる作物が一夜にして台風の打撃を受けると、それこそ収入・生活に関わる一大事だ。しかし、ウチナンチュは嘆かない・愚痴を吐かない・文句を言わない。それはこの島に住み着いた時からの「定め」であり、受け入れるべき天然自然であることを悟っているのだ。嘆き・愚痴・文句が、さも天への恨みにつながることで、それは天への畏敬を知らぬ者の仕業であることを悟っているかのごとく、台風という天災を受け入れ、もう一方の天の恵みの方に感謝することをウチナーは忘れない。
人生には全てがある。幸も不幸も、プラスもマイナスも。幸があるから不幸もある。全てが幸であったとしたら、そこには幸も不幸も無くなる。全てとは1から9ではなく、0から9である。1から9の数字は一つ一つに個性がある。しかし、インド哲学が生み出した0こそは「無」に通じる、全てを包含した無である。不幸の3倍は大不幸かもしれないが、不幸の0倍は無だ。この「人生数学」をどのように生かすか、考えるかが人生と科学の関わりなのかもしれない。現代人は金本位の数学しか考えないから、俗な不幸が山積してくるのだ。そもそも幸、不幸は人間の心が決めていることに違いない。ということは、幸、不幸という形而上の物があるのではなく、人間の心が勝手に作り出しているに過ぎない。1億のお金を持っている人が幸で、1万のお金しか持っていない人は不幸だという考え方は、考え方の差、基準を金額においているということに過ぎない。幸、不幸についての視点は、全てその人の考え方・心のものさし次第である。そんなものは天から見れば大差はないことだ。何でも来いとドンと構える、心構えが大切だ。
ウチナンチュは、「大型の台風が来ても、命までは取らんさぁ」とおおらかに達観している?それも、美ら島の気候・風土が人々に影響を与えているシゼンなのかもしれない。「なんくるないさぁ」と笑顔で言ってのけるウチナンチュが私は大好きだ