2005年03月の日志

写真集?
12月31日の大晦日、3月31日の晦日は学校関係、教育関係の者には格別の思いがある。行く年来る年のような感慨がある。沢山の別れ・旅立ち・出発に出愛。沢山の出愛に出会う。また、『学美愛』の出愛をする季節がやって来た。
 
『夢人』という写真集が4月7日に出来上がる。遊書と小生の文字を書いている時の写真。東京の宮坂嘉津子さんの作品を皆さんに乗せられてボランテイアツールとして作らせて戴いた。取らぬ狸の皮算用ではないけれど、売れ残ってしまうとカンボジアの学校建設募金に少し穴があく?完売すると潤沢な募金額になる。
葉書、CDカードと募金ツールを今まで作らせてきていただいたが、いつも大抵は無料で差し上げてきたので募金が増えなかったけれども、今回は心を鬼にして募金に協力していただこうと思っている。本の出来栄えは写真そのものが主役で、プロの作品で2度にわたって東京から撮影に来ていただいただけあっていいものに仕上がっている、自分で言うのもおこがましい限りではあるが、55年の人生の中で始めて自分の写真をカッコいいと思った。大袈裟かどうか、ウソか誠か、ぜひ、募金して購入して確かめて見てください。1冊500円+志です。
(2005年 3月 31日 [木曜日])

創字家(そうじや)
 伝和番号・侘美錆美・現悟能力・歓謝神劇・家頁。
あなたはいくつ読めますか?電話番号、侘び寂び・言語能力・感謝感激・ホームページが答えです。これは私のメールに入ってくるタイトルです。私が連楽・返心などとお送りするので、それにお答えして返してくれます。今、私の創字はおそらく200近くになっています。私の病が皆さんに伝染していっているようです。ある人の研究では全てのものには波動があって、文字にも波動があるといわれています。私はそのことを信じていますが、事実としてそれは証明されています。漢字は表意文字で一字一字に意味を持っています。それは私達の頭の中にインプットされていて、大脳が瞬時に反応します。例えば「年中無休」という文字を見て爽やかな感じがして元気が出る人は少ないと思いますが、「年中夢求」の文字を見たら元気が出る人のほうが多いと思います。これは波動ではなく、大脳の自然な反応ですが、同時に波動も出しているのです。だから、言葉は大事にしないといけませんし文字も大切にしないといけないと思います。私は字遊人と名付けていただいて創字家として、いろいろな字を書かせていただいて、少しは皆様に歓んでいただけているのはその辺にもあるのだと思います。私はいつも楽しい面白い字を書かせていただいている分、美しい花に囲まれているように字に囲まれて生活しています。自分で創字をして、それがとても精神生活にも良いようです。ストレスが溜まらない。いつもウキウキした気分でいられます。自分で自分の心を掃除しているような気もします。
 これからも字遊人・創字家として遊書を通じていい波動を皆さんに伝えられたらいいなあと思います。
(2005年 3月 30日 [水曜日])

童神(わらびがみ)と天使

天の光受けてぃ ゆういりよや〜
           高人なてぃ給りぃ 
(お日様の光を受けて どうか立派な人に育ってください)
 これは古謝美紗子さんの我が孫に贈った子守唄。
 小生の作品も展示の後、古謝さんに贈呈。


10年ぐらい前は塾生のことを恋人と思っていた。思うようにして大事にさせていただこうと思ってきた。こちらが年を重ねてきて想いが変って来た。春休みに入って小学生のクラスにピカピカの新1年生が二人、2年生が2人来て下さっている。この子達を見ていると本当に天使のように可愛い。人様の子どもでもこんなに可愛いのだから、これが自分の孫だったらわが子だったら、「眼に入れても痛くない」というお爺ちゃんの心境が判るような気もする。何とも言えない美しさがある。純粋無垢というのはこの子たちのためにあるのだなぁと思わずにおれない。私の前で50分の間に10ページぐらいの算数の問題を楽しそうに嬉しそうにドンドンと解いていく。今のこの子達は勉強大好き少女だ。花マルのスタンプをたくさん押してあげて、「たいへんよくできました」と書いてあげると、ニコっと天使のように花のように美笑む(ほほえむ)。わが子を育てている時にも感じることのなかった感慨だ。親は子育てに必死になる分、ゆとり・余裕が持てないのだろう。みんながわが子を天使だと自慢することができたら、童神だと思って育てていけたら、みんなきっといい子に育つことは間違いないことだと思う。子供は天使、天の使い。子どもは童神、神から授かった童(わらべ)と思えばいい。しかし、親のエゴでそれを忘れて、私の子、私の思い通りに育てたいと思い込んでしまう。親子・先生と生徒の関係において、人間関係の基本として、何人も思い通りに動かすことはできない。子が親の思うとおりに動く時、それは子どもの意志であり、そうしたいからそう行動するのだ。
 今、無心に学ぶ、この天使たちがいつの日か勉強嫌いになってしまうのは、親・教師の責任だ。この子達が嫌いになるのではなく、周りの人が嫌いにさせてしまうのだ。純粋無垢な心をエゴで汚さないように、この学びたいという心を育てるのが私達の一番の志事だと思う。
(2005年 3月 29日 [火曜日])

ビゴ
芦屋にピゴというパン屋さんがある。芦屋・神戸・銀座というブランドで確かにここのパンは美味しい。角食パンはブロックで800なので少々高いようであるが、それだけの美味しさはある。私はちょっとした手土産代わりにこの「角食」を買っていく。和菓子もケーキも子どもには歓迎されても家族の人数を考えると難しい所がある。ここのアップルパイがまた、なかなかのものである。りんごが1個丸々入っていて、パイ皮がグーで形がほぼりんごのような形をしている。1個で4人分ぐらいだが、ちょっとを戴くのがいい。昨日、買いに行った時、初めてご主人であるフランス人のピゴさんに会った。戦後間もなくから在住しておられるのであろうか、バリバリの日本語で、あの言葉遣いから察するに日本人だ。「ありがとうございます」という語気に日本人を見たし、彼の気がとてもステキだった。国際人とか国際化とか言うが、それは本当に日本人的意識で、外国人は感覚そのものがヨーローッパ人を中心に、国続き陸続きで外国意識が日本人と違うし、アメリカにしても元々ヨーロッパ人が移住しているので、異国人意識がないように思われる。日本にも外国人がたくさん在住するようになってきて事情も変容してきている。和洋中何でも食する日本人
何でも受け容れることが得意なのだから、もっと大らかになる必要があるのだろう。そのことによって日本人の主体性も生まれるように思える。
(2005年 3月 28日 [月曜日])

ゆがふ
 ペンションびせざきの愛する仲間達の輪、平和、大きな和(オキナワ)は世界的に拡がっている。そして私の世界も大きく広げてくれている。お互いが客同士としての間柄で実際には会ったこともないのに、私の所へ愛に来て下さった福岡の順ちゃんと大阪の千枝ちゃん。今日は千枝ちゃんの琉球舞踊の仲間、井口梓さんの送別会に参加させて戴いた。眼と鼻の先の西立花町、歩いていっても10分の所に私が捜し求めていた琉球料理の店があって、そこが会場だった。店主の向井さんはウチナーの熱い情と心を持った素晴らしい人だった。千恵ちゃん以外は皆さん初対面の方であったのに私は直ぐにウチ溶けて(沖縄では心のことをウチという)何とも言えない清清しい時を送らせていただいた。
 三線の爪弾くリズムと琉舞が魂を癒してくれた。あの皆さんの熱い心は何なんだろうと不思議にさえ思える。あえて言えばこれがウチナーの心なのだろう。私も仲間に入れていただいて12人の仲間、皆さん一人ひとりにお名前に因んだ言葉を段ボールに書かせて戴いて遊書展をさせて戴いた気分。今日は自分でも絶好調の字を書かせて戴いた。『ゆがふ』という詩も書かせて戴いた。これはまさしく皆さんの気を戴いて面白い字を書かせて戴いたような気がする。『お互いの心が響き合って面白い遊書が生まれる』本当に神謝・歓謝・感謝の一日だった。関戸さん・天野さん・島袋さん・岡田さん・内間さん・井口さん・河井さん・前野さん・佐藤さん・千枝ちゃん、そして「ゆがふ」のオーナーの向井さん本当に有難うございました。出愛に神謝です。
美世咲の輪、花が大きく咲いていく。私達の住んでいるところがゆがふになりますように。
2005年 3月 27日 [日曜日]

読書話聞思考力
 国語を学ぶということは、母国語の読む・書く・聞く・話すということを学ぶことである。それが思う、考えるにつながる思考力となる。語彙の豊富な人とそうでない人の思考能力は、語彙力に比例するケースが多いと思われる。日常の生活をするという点においての読み書聞く話すは不自由はないだろうが、読書話聞レベルとなると、いい意味でもっと学ぶべきではないだろうかと思う。言葉が通じるという点で伝達機能の点では問題はないが、思いを伝える考えていることを伝えるとなると、言語レベルが合わないといけない、心を伝え愛を語るとなると精神性があわないと難しいところがある。その辺を語る人が少なくなってきているのが寂しい。七面倒なことを抜きにするならば、言葉を大切にすることを心がけたい。
 言語能力については、この話はとても参考になる。アメリカで成功者を調査したところ、中卒高卒大卒の学歴ではなく、一様に成功者の言語能力は、ハーバード大学大学院卒程度の言語能力があったという。リィーダーシップと言語能力も大いに関連性が高いと思われる。これは「さもありなん」と考えられることだと思われる。
 今、言葉の大切さが軽視されている。言葉が乱れている。好ましくない事件、事柄がたくさん起こっている。そして、その傾向が強まっている。日々、使う生活必需品というよりも、言葉は生きるに必要なものである。人と人、人とモノ、人と全ての関係はお互いに大事にし合うことだ。言葉を大事にしないということは自分を大事にしないということである。
2005年 3月 26日 [土曜日]

心伝愛語
今日から春期講習。新しい顔が並んでいると新鮮な凛とした気持ちになってくる。「日々心鮮」この気持ちを持続できるかどうかが、成長人間とそうでない人の差であるかもしれない。私も一人前の事は言えないけれども、「人生毎日初舞台」という言葉も創語したように、言語で自分の潜在意識に浸透させているので、少しは人様より違うだろうと思っている。
 昨日は親しくしていただいている会社の専務さんにマンツーマンでセミナーのような形でお花詞(話)をさせて戴いた。初めに言(ロゴス)ありき、で言語、言葉が如何に重要であるか、心底にどのような言葉を持って置くかが大切であると説かせていただいた。40代を超え、5、60代になってくると言葉遣いの美しい人は貌もいい、言葉遣いの美しさの中には肯定的・プラス発想・明るいものという内容もとても大切であるように思う。お蔭様で私は国語の教師であるので、授業中の言葉遣いも心がけていい言葉を使うようにしている。当たり前、当然の事であるが、小学校の授業参観に行くと驚かさせられる。他の教科ならまだしも、国語の授業であのような言葉遣いをしたら、根っこのところで国語の授業にならないと思うケースもある。読み書き聴く話す、これが正しい美しい日本語で為されるべきであると思う。
 言葉を大切にするということは心を大切にすることにも繋がるように思えるのだが・・・。『言葉は心を伝え愛を語るもの』
(2005年 3月 25日 [金曜日])

春は選抜から
 甲子園が始まった。地元の神戸国際大附属高校が4−1で甲府に勝った。結果を見れば、振り返れば快勝のようでもあるが、ヒヤヒヤものの勝利だった。高校野球の醍醐味でありスリリングな面白さであるが、一歩間違えるとどちらが勝っていたか分からないという試合であった。試合後の監督さんの弁にもあったように甲子園未勝利校のプレッシャーは、眼に見えぬ大敵である。
 神戸国際は私が塾をする前の勤務校。勝利の校歌が聴けるとTVに聞き入っていたら、校名変更した時に、当然のことなのだろうか校歌も変っていて懐かしい校歌が聴けずに残念だった。OBも同じ思いで聴いていただろうと思う。
 高校野球は御ひいきがあったり、地元や何かの縁があって応援するとなると本当に入れ込んで応援してしまう。甲子園の天使は、勝利の女神は人智の及ばぬ所で「正義」に味方する。ここ10年、沖縄・北海道と優勝に縁がなかった地域が優勝するようになって来ている。東北地方があと最後の一つになったようだ。
 ガンバレ球児!君達の奮闘が全国に春を運ぶ。
(2005年 3月 24日 [木曜日])

詩野寿多(シヤスタ)
 3年前の4月27日、アメリカ・カリフォルニア州・マックロードにあるStoneyBrookInnで字遊人西口賢治は産声をあげた。文字通り生まれて初めての書の個展だった。この時はまだ書道と書いていた。その後に遊書というようになり、字遊人と名付けていただくようになった。考えて見れば大それたことではあったが、ここの日本人オーナーの鈴木弘美さんのお誘いを受けてさせて戴いた。ここMtシャスタは世界7大霊山の一つに数えられる所で、素晴らしい「気」がある場所である。弘美さんにお声をかけて頂いたと言っても、前年の夏に沖縄で友達を通じて紹介して戴いただけで旧知の仲ということでもなかった。でも、ご一緒して神の島と言われる久高島へ行って「気燃謝心」を撮るのにハグしたのも良かったのかもしれない。招かれるようにシャスタの山懐に抱かれに言った。その美しさ、素晴らしさ、気の安らぐような穏やかさは形容しがたいものが在る。癒し、癒しというようなそんな嘘っぱちがない。母なる海、母なる大地というならば、神なる聖山の感がある。かといって凛々しさや荘厳さがあるというのではなく、母なる山、父なる山の感がある。普通は岳父というように山は男性かも知れないが、シャスタは中性で神様なのかも知れない。今年、私の魂はシャスタとインドに呼ばれていた。強いほうに惹かれてシャスタ、字遊人賢治が生まれた故郷に帰る。
(2005年 3月 23日 [水曜日])

覇駆(はぐ)
 覇駆=覇気が駆ける。公立高校の発表があって合格の報告に子ども達が駆けてくる。私が手を広げて「おめでとう」というと、どの子も私の手の中に、胸の中に飛び込んでくる。そして、私にハグされて体一杯に喜びを表現する。歓びで涙を流す子はいないけれど感、極まって涙ぐむ子がいる。受け止めてハグしてあげて、歓びを共感してあげる。他のことであれば、子どものタイプ・性質でその表現も違うのだが、男子も女子も全ての子が、胸に飛び込んでくる。中3の女の子がおじさんの胸に飛び込んでくる(おじさんだから飛び込んでくるのでしょうか?)。男の子をハグすると、180センチ以上の子だったらこちらが抱き竦まれる形になる。この子たちは、自分の親に、自分の学校の先生にはどのように表現し、どのように喜んでもらうのだろうか。中には握手もしないケースもあるのだろう。なんと寂しいことだろうか。私達教師は子ども達の全てをこの広い胸で受け止めてやって、どんなこともハグしてあげる度量を持つことが大切だと思う。それは言葉で言うのではなく、態度で示すのではなく、気で伝えるものだと思う。活気・喜気・空気・景気・光気。気を大切に。
(2005年 3月 22日 [火曜日])

字力
 時計に気付いたら3時半、神戸、北野町のカフェバーに12時過ぎに入って2時までと聞いたので、時間になったら言って下さるだろうと思っていたら寛ぐほどゆっくりさせていただいて話をした。大袈裟にいうと魂の対話。
 ちょうど1年前の遊書展のお客様として来て下さって、「球志意」の文字を書かせていただいて、晩秋の頃にメールを頂いて、2月に沖縄に行ったとき小1時間、数人でご一緒にお会いして話をして、とんとん拍子で話が弾んでこの4月9・10日に遊書展をさせて戴くことになった。言えば3度目の出愛だけれも胸襟を開いてというよりも、魂を見せ合って話をさせて戴いた。私の55年の人生を語り、お互いの思いを伝え合った。Yさんは26歳のとても素敵な可愛いお嬢さん。沖縄にはユタ呼ばれる人がいて、巫女?神の子?霊感者?どれも当てはまらないし、沖縄の文化、風俗を知らないとその存在を分かりえないのだが、Yさんは魔女っ子というか、とてもシャープで柔軟な感性を持った人で、私が引き込まれるように全てを語った。時の流れを忘れるが如くというが、普通ならば何度となく時計に眼をやるのだが、とても不思議な時空間を過ごした。
 お蔭様で遊書展をさせて戴くようになって、字を通じて私は「縁創家」=(ご縁を創る人)になっているような気がする。Yさんもまた、「文字」も気を発するという。皆さんが「何か伝わるものがある」と仰ってくださる。自分自身では分からないことだが、素直に受け止めさせていただいて、自分磨きをさせていただければ「気の在」る、「気に入」っていただける字が書けるようになるかもしれないと思っている。お蔭様で字遊なかたちで、ご縁が拡がり20歳の女の子から60歳の方までたくさんの素敵な人との出愛が、ご縁が出来てこれが何よりも嬉しいことだ。勿論、男性の方は師弟関係に及ぶ絆も出来て本当に幸せである。
(2005年 3月 21日 [月曜日])

吾喜・意気・運気・英気・穏気
活気・喜気・空気・景気・香気
殺気・志気・崇気・節気・素気
多気・稚気・通気・低気・
何気・人気・  ・熱気・暢気
覇気・  ・風気・平気・風気
真気・水気・無気・明気・猛気  
躍気・言気・勇気・鋭気・陽気
楽気・悋気・留気・冷気・論気
和気・   湯気・栄気・
2005年 3月 20日 [日曜日]

また愛たい
「また逢おうね」黒川温泉の旅館のロビィーの所に掛けられていた。タバコを燻らしながら、正面に座ってじっと眺めていた時に、「また愛たい」とい言葉を思いついた。私自身がいい人に出会うと、また愛たいと思う。お手紙の末尾にこの言葉を添えさせて頂いている。そして、自分が人様に「また愛たい」と思っている人になりたいと願っている。それは公私ともにそうありたいと思っている。塾長として、また愛たいと思ってもらって、また来ていただかないと困るし、人気のバロメーターとしても面白い楽しい授業が出来ないと、いい意味で自分のプライドも許さない。
 私的には業種的にも、功利的な面や営利が伴ってお月愛をさせて戴くケースが少なく、西口賢治、素のままでお付き合いをさせて頂かないといけないので、まだまだ人徳を積むという所までは10年早いかもしれないけれど、積善展運でそのことを励みにして自分磨きをさせて戴こうと思っている。わが師からは「男の色気」をお互いの目標にしようと語りあっている。
 男の色気??? よく分からないけれど、人間としての魅力を持つという事?私としては自分の個性を伸ばしていきたいと思っている。
2005年 3月 19日 [土曜日]

和の会
 今日は中3生の卒塾式ということで、「和の会」を甲子園球場横の元甲子園都ホテル、ノボテル甲子園でセレモニィーと昼食会をした。話の内容は「言葉の重要性」を説いた。最後のメッセージを伝えさせていただいた。仕事は事に仕えること、志事は志しの事をすること。頭の中での認識で、自分は仕事をするか志事をするのかで、考え方も取り組み方も変るのではないかと、私は思っている。
 お昼はホテル内での「ポモ・ドール」でバイキング。当世の中学生は、食べるということには不自由をしたことも感じたこともないので、食べ放題のバイキングでもガサツクことはない。でも、楽しく食べるということについては充分に満足をしてくれているのだと思う。
 この写真、この雰囲気を見ていただければ「楽しさ」は表現されていると思う。長い子は10年を越し、短い子は3ヶ月、その愛し子たちが卒塾していくとなると、やはり寂しいものは在る。
 別れは新たなる出愛のスタート。新たなる出愛のためには、別れもまた良しとすべきことなのだろう。
(2005年 3月 18日 [金曜日])

知空(ちから)
 「月さま、雨が」「春雨じゃ濡れていこう」昭和20年代前半生まれまでの人は、ほとんどがこの言葉を知っていた。これは東映時代劇の映画のセリフだ。今日は雨。春雨で、一雨ごとに暖かくなっていくのだろう。選抜高校野球まであと1週間。春の足音が心澄ませば聴こえてくる。
 携帯メールで「美ら島の青空」が送られて来た。青い空に白い雲。自然の美しさにうっとりさせられる。これはお洒落な贈り物だと歓んで仕舞う。早速、待ちうけ画像に取り込んで、いつも眺めていようと思う。きっと「千財意志気」溶け込んで心も影響を受けて美化されるかも知れない。
 仏語でいう「空を知る」ということはどういうことだろうか?難題ではあるが、知空、空を知ると言うことは力になることかも知れないと思う。新明解国語辞典によると「空=空こそあらゆるものの本来の姿であるという、仏教の基本的な考え方」と書いてある。空は宇宙の気象を包含して、あらゆる形を千変万化に変えあるがままに在り、実態がないとも言える。花も月も星もあるがママが美しい、人もまた、在るがままで美しいものでありたい。
(2005年 3月 17日 [木曜日])

几帳面さとルーズさ
 小中学校の時代での成績は、ほとんど「頭のよさ」というよりもタイプ的な面が反映される。几帳面さとルーズさ。圧倒的な差で成績に出てくる。例えば、板書ひとつとっても、先生が10書いた分に対して、成績が良い子は13ぐらい書く、中学生は生徒によると学校では0の子もいるはずだ。(先生の指導・管理能力の問題だと思うが)。13の板書すること0の子が同じ成績であるはずがない。親がこの状況を把握しているかどうかが問題だ。そのことに眼が言っていないで、365日、「勉強、勉強」と言っていても成績が上がるはずはない。では、13の子はどのようにしているかというと、先生が説明したことや、重要事項をすばやくメモしているから、10プラス3の板書になる。テスト前にはこの3を確実にチェックしている。これが一例でいろいろな場面で几帳面に心がけている子と、まったく逆に、ことごとくルーズな子は、いろいろな場面でルーズ(lose=失う)しているのである。勉強の面では、几帳面さは大きな成績の要因で、これは日常の生活の中で、育んでいってあげるという親の教育領域だと思う。
几帳面で素直。これは鬼に金棒みたいなものである。
 では、几帳面な子は必ず将来、成功するかというと、度が過ぎると困りものの面もある。社会人になって、人間関係という組織の中において自分ばかり几帳面過ぎるのは、他者との関係において歩調が合わない所がある。大らかさ、寛容さ、協調性という面においてバランスを取っていかなければならない。
 ここにタイプ・性質・学力・実力・etcと総合的な力が、そ人の人間性、生きていく力となっていく。だから、頭のいい子ではなく、人間として賢い人間に育ててゆく教育をしていかなければならない。その点において、親の意識、大人の考え方が子どもにとって影響を与えていくところは大きい。子どもにとって最も大切な環境は人間環境である。
 
(2005年 3月 16日 [水曜日])

字心
 一般的に絵心はいうが、字心はいわない。字は生活に密着しているが、絵は描こうと思わないと、意志が働かないと描けないからかもしれない。これからの時代いつか字心がないと・・・。いうようになるのかも知れない。
 その昔、利休の時代の茶道世界では、お客様をお迎えするに当たっては、書簡をしたためてお客様の所へ出かけて行き、その上でお茶席にお招きした。と大学時代に読んだ本で学んだ。それ以来、本当に相手に来て欲しいとか、相手に心を伝えたいならば相するのが礼儀、当たり前だと思うようになり、手紙の宛名は筆を使うようになった。随分永い間、筆ペンにお世話になったが、最近では筆を使うようになった。まだ、墨を磨ってということはほとんどないが、墨汁はいつも側にあって筆も机上に何十本と立ててある。字を書くということ、筆で書くということが生活に密着している。20数回になる遊書展を通じてたくさんの人に字を見ていただいて、おそらく間接的なものを入れると万人を超えるのであろうが、いい意味で「上手」「巧い」と褒められたことがない。寧ろそれをよしとしている。でも、有難いことに「何か伝わってくるものがある」「ほっとするものがある」「言葉に感動した」と言っていただくと、本当に心から嬉しく思う。
 言霊というように、文字にも魂とまではいかなくても、字心はあるだろう。でも、お蔭様で新しい家に魂を入れて欲しいといわれ書かせて戴いたことがある。お店に書かせて戴いたこともある。そのような時、相手の方と心が響き合うと面白い字が書ける。僕の手の技ではなく、相手の方の気をいただいて書かせていただくという感じ(漢字)だ。これからも相手の方の心を戴いて、私の字心を合わさせていただいて、恋われれば何時でも何処でもの初心を大切に頑張らせて戴こうと思っている。神謝・歓謝・感謝。
(2005年 3月 15日 [火曜日])

ホワイトデー
 『「超」勉強法』と朱字で書いた「夢」。これがホワイトデーのお返し。大人の方にも本と小生の作品をお送りさせていただいた。本を読んでいただけたら、良さがいつか伝わるだろうという思いを込めて・・・。
 東進の予備校の方が今日は卒塾式で約30分間、自分の思いを語らせて戴いた。結果を出した後のことなので、どこの大学へ行くかではなく、大学へ行って「何をするか」「何を学ぶか」を伝えた。「何でもいいから一途に打ち込めるものを見つけて、自分という人間を磨けるほどに打ち込んで欲しい」と伝えた。こちらの想いは一つでも受け止める方は、それぞれの感性でいろいろな受け止め方をする。言葉というものは、だから難しく、だから面白いと言えるのかも知れない。詞合わせ、言語・言葉・詞が合うというのは幸せに通じることだ。同じレベルで対話したりスピーチするのはなかなか難しいことである。
 感動・感謝・感性。感じて動く、感じて謝す、感じて生きる。人は五感でいろいろなものを感じ、そこから行動が生まれて何かを生み出していく。感じて生きるという感性、素直で柔軟でピュアで、ここが難しい。let's it be.あるがままを受け容れるということも、練習であるのかもしれない。
 いつまでも心の若さを大事にして、ガンバレ!ガンバロウ!
(2005年 3月 14日 [月曜日])

努力をしないで出世する方法
How to LUCKY7
[覇宇登楽気意世舞運]=宇宙の覇気、この世の運が気愛と意志となって楽しく舞う方法。
T.60兆の細胞を活用する
U.言霊を活用する
V.潜在意識を活用する
W.天地人を活用する
X.夢現の方法を活用する
Y.瞑想を活用する
Z.精神を活用する
※詳しくはホームページ「徒然草子」をご覧下さい。

 高1の時に見た映画のタイトル。今、ブロードウエイで人気のミュージカルの題名。努力する尊さ、素晴らしさは誰もが知っている。努力することの難しさも知っている。教えて欲しいものは「どうすれば努力できるかだ」。「努力したらええ」「努力すれば全ては克服できる」。これでは答えにならない。努力の上に、ほんの少しだけ心がけていただければ遥かに大きな成果を生み出す方法。努力し易い方法を書かせて戴いた積りです。皆様の叱正を覚悟の上で、子ども達のために・・・。
2005年 3月 13日 [日曜日]

和美茶美(わびさび)
侘び=(茶道俳句が理想の境地として求める)質素で落ち着いた趣.
寂び=古びたものに感じられる、落ち着いた趣。
[新明解国語辞典・三省堂より]
 国語辞書としては定評があり一番売れている「新明解」でも、分かったような分からないような意味だ。自分で恥を晒すよなモノかもしれないが国語教師として、茶道を志したものとして30年の経験からしてもピンと来ない。学生時代に薫陶を受けさせていただいたお家元の御言葉は「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」これが侘びの境地をお教えを受けたが、こちらの方がまだ良く判るような気がする。
『和美茶美』本来、大和の心、日本人の心は華美ではなく質素を好しとして、そこに美を求める。それはこの言葉が出来た時代を反映して、現代も脈々と受け継がれていないといけないものであるのだが・・・。西洋と東洋の差で物質的文明に重きを置いた西洋と、精神的文明に重きを置いた東洋の差もここに見られるように思える。現代の日本は物心両面で混沌としている様相で、侘びの心も忘れられているというよりも日常生活からは残念ながら遊離してしまった。心を大事にする大和人の和の心、聖徳太子が「以和為貴=和を以って貴しと為す」と言った美が和美。茶美は日常生活の中で、安らかに落ち着いて茶を喫す、その中で人と人が和みの心で語らうという自然な生活の中にある美が和美。これでどうだろう。和美も茶美も日常生活の中にあってこその「美」であるべきだ。大和人の美意識を私は大切にしたいと思う。
 私は塾生にお茶の心とお茶の飲み方だけは教えさせて戴く。子ども達はお菓子が楽しみなようだが楽しい授業らしい。今、机の後ろの書棚にお亡くなりになられた人間国宝の金城次郎さんのお茶碗がある。14,5年前に窯元で5000円で買ったものだ。これこそが日本一安い国宝の茶碗だと一人、悦に入っている。
2005年 3月 12日 [土曜日]

初めに言(ロゴス)ありき
 言葉=ロゴス。ロゴスというギリシャ語には「言葉」とともに「理性」、「思考能力」という意味も含まれている。
実に感銘を受ける言葉である。字遊人を名乗る私にとっては、意味深い神の言葉のようにも受け止められる。
 例えば、友情を優情と書き換えさせていただいている。友から優に変換することによって、友達への情から、優しい情へと認識が変る。これは漢字文化の意義深さだといえる。優が持つ「漢字の感じ」が見た人、読んだ人にそれぞれの感性で受け止められる。これは素晴らしい文化だと思う。ロゴスが思考能力であるとするならば、語彙の多い人と少ない人とでは、物理的に考えても多い人が優ると考えられる。思考深度も深くなるはずだ。そして、理性もロゴスが豊かな人のほうが正しい理性を身につけるように思われる。
 アメリカンドリームの成功者を調査したところ、その人の学歴に関わらず、中卒・高卒・大卒の区別なく言語能力、語彙力はハーバード大学大学院卒レベルであったという。このことからもいかに「言葉」、ロゴスというものが重要かがよくわかる。言葉が豊かで美しい人は心も豊かで美しくなりうるという、とらえ方も可能だと思える。言葉を発すると言うのは、自分にも他者にも言っているということを認識すべきだと思う。ゆえにいつも美しい言葉遣いを・・・。
(2005年 3月 11日 [金曜日])

学美愛
お蔭様で塾長をさせて頂いていると老若男女、いろいろたくさんのお人のお出愛させて戴く機会に恵まれる。今日はチエちゃんという20才のお嬢さんと一緒だった。いつもここでよく紹介する沖縄の「ペンションびせざき」のお客様で、私もびせざきの大ファンということで、お客同士がこのペンションの引力に引かれて、大阪近辺同士の客としてお愛する機会を昨秋に持たせていただいた。それ以来、時々、お愛して55歳のおじさんと二十歳のお嬢さんが、人生を語り合う。掛け値なしで話をしていると、たくさんのことに気付かされたくさんのことを学ばせていただく。それはチエちゃんが大人びているとか、私が幼稚だとかというのではなく、どちらかが無理をして合わせているというものでもない。宇宙の歴史、人類の歴史から見れば55と20なんて差がないも同然という思いで、私は対等にお月愛をさせていただき、チエちゃんもまた、そういう思いなのであろう。良い人を介して出愛をさせて戴いているというのもあるのかも知れない。こちらは少し変るぐらいだが、向こうは変化する。変って化ける。そのスピードには素晴らしいものがあってついていけるものではない。「天命」と「使命」について含蓄のあることを語ってくれた。遣り甲斐のあることを志事、使命にして、生き甲斐の持てることを天命にして両方がしっかり出来れば素晴らしい人生になると。本から学んだことだそうだが、私にとってはとてもタイムリィーな言葉だった。
 私の話させて戴くことを素直に聞いてくれて、いろいろと実行をしてくれる。彼女の前では決して自分の事を「先生」とは呼ばない。ヒューマンリレーションの基本は「対等」であることだと思っている。でも、やはりいい意味で敬意を持って接してくれているのが伝わってくれる。私のホームページより、「100個の愛」の言葉を全部手帳に写して言葉を大事にしてくれている。
 吉川栄治氏が「万物みな師なり」というならば、お出愛する人は年齢に関係なく、みな師であるはずだ。 
(2005年 3月 10日 [木曜日])

神謝・歓謝・感謝
神謝・歓謝・感謝
 今、命あることに
 今、生かされていることに
 今、ここに在ることに

 感謝=ありがたいと思うこと。謝という字を分解すると一寸,身と言葉を磨くということかも知れない。言葉を磨いて心を磨いて万物に感謝をすること。それを心に感じることであろう。
神に感謝,歓んで感謝、感じて感謝する。命あること・生かされていること・ここに在るということが、あまりにも当たり前になり過ぎていているように思える。人間、感謝することを忘れたらダメだと思う。太陽・月・星という宇宙の存在の中で生きているのではなく生かされている。その宇宙の存在からすれば人間は無力だ。地球という星の環境、人間という社会の環境、心の世界という環境が乱れている。物理的な要因もさることながら精神性の要因の方が大きいように思える。『神を畏れ人を恐れず』という言葉があるが、神は宇宙であり、自然であり、太陽であり、ここに信じるものである。この信じるということの大切さを現代人は忘れているのではないだろうか。物質文明の最大の癌はお金だ。これが精神世界に蔓延ると「普通の人」は、心が癌に犯される。私は勿論、お金を否定するものではないが、人がお金は遣ってもお金に遣われてはならない。精神的なもの以外のモノが力を持ち始めると、その力の作用に影響され過ぎる傾向に陥る。神が完全で人間が不完全であるとするならば、この不完全さをモノで埋めるのではなく、精神的なもので埋めようとしていかないと、人間はますます、エゴに陥ってしまう。人に何を伝えるのか、次代の人へ、子ども達に何を伝えるのか、我々、大人たちが遺産として遺せるモノはお金ではなく、文化という遺産ではないだろうか。
エゴの世界で「わが子にお金を残せばいいではないか」というエゴがどこまで続くであろうか・・・。
 先ず、神謝・歓謝・感謝の心から第一歩をと願う。
(2005年 3月 9日 [水曜日])

心語=新語
 感性ノートという小さなノートを持っている。100円ショップで2冊100円ぐらいで買えるものだ。根がルーズで几帳面ではないのでこの帳面をよく何処へやったか探すことがあるのだが、ここに閃いた心語=新語を書くように心がけている。心語、心の言葉というと聞こえはいいが、要は遊びから生まれてくる閃きの言葉だ。メモっておかないと忘れてしまうことがある。センサーを張り巡らしておくといつでもポンポン出てくる時もある。
もう一つはなんと言ってもPCのお蔭で漢字変換の武器を駆使している。これは辞書を調べるよりも早くフィーイングで読み取ることができる。ビジネスマンや経営者の方はその方面にセンサーを張っておられるのかも知れないが、私は心語に傾いている。一様申し上げておくと、恥ずかしながら私もビジネスマンであり、経営者でもあるのだが・・・。今日の新語はお話にもならない、お花詩orお花詞。人間、言葉はとても大切だ。だから花のような詞のような言葉を発したり紡ぎ出せたら素敵だろうという思いである。昨夜はある会に参加できずに失礼をしたので、お土産に板に書いた作品だけお届けさせて戴いて、喜んで頂けた旨を知らせていただいた。
言宝石集(ことだましゅう)
@月愛A強引我道B夢縁Cお蔭力D機積E集人力F神謝・歓謝・感謝G優情H年中夢求I人生迎夢J繁心待我寿K一緒懸命L徹楽M美心N魂生。
 
(2005年 3月 8日 [火曜日])

福求(復旧)への道
 心気一転、心鮮にという天の啓示を受けて、2004.1.1より書き綴らせて戴いております日志(日々の志し)を福求(復旧)させて頂きました。お読み下さる方の福を求めて、ホームページにも在るとおり、徒然草と枕草子をミックッスした徒然草子(つれづれぞうし)の想いを学(マネ)て、あと30年、40年?小生がパソコンを操作出来るまで継続を宝として綴って生きたいと思っています。どうぞ、ご支援ご指導を心からよろしくお願い申し上げます。
 福を求めて・・・。漱石や鴎外の時代は「幸せ」は「仕合せ」と書いていたようだ。これは実にいい文字だと思う。仕合いとは仕え合いをするということだと思う。夫婦がお互いに仕え合いをすれば、おそらく、仕合わせになることだろう。志合わせ、親子、仲間は志を合わせること。詞合わせ、人間同士は詞、言葉を合わせることが、幸せになることの条件のように思える。
 お金がないと幸せだと思えない人、お金がなくても幸せだと思える人。その条件は物理的なものでなく、我が意、我が心がどう決めるか、どう考えるかによって決まるのではなく、自分で決めているように思える。だから、幸せの絶対条件などはない。あなたの「こころのせかい=あなたの小宇宙の価値観」によって決まるようだ。私はお出愛させて戴く、ひとり一人の方々と志合わせ・詞合わせ、志と詞を合わせあってお互いが幸せになれたらと思っている。
(2005年 3月 7日 [月曜日])

偉大なる走者、デネバ!
 世界中の人々が注目をして見つめた。あのオリンピックの男子マラソン。信じられない光景に走者自身も観衆もTVを見入る人々もあっけにとられた。そして、世界中の人々が爽やかな想いで見つめたデネバのゴールシーン。あのシーンに心打たれた人々、感動した人は何人いたのであろうか?その想いに駆られて、今日、デネバが出場したびわこ毎日マラソンを観戦に行った。彼は30キロぐらいから不調を来たし、立ち止まり遂にはリタイアしてしまった。観衆も無念ながら本人自身の無念さは計り知ることが出来ない。彼が棄権した地点は奇しくも、あの暴挙に遭遇した地点と距離が符号するのではないかと思われた。次の「快走」に期待して心から声援を送りたい。彼の走る姿、走る風貌、語り口調、どれもが謙虚そのもので素晴らしい。
 新ビルの教室のお隣に看板やさんがあって、ここのご主人はお顔が広いらしく、いろいろなチケットを頂戴されて私に下さる。ちょうどびわこマラソンに行く予定であったので、展覧会めぐりをさせて戴いた。「エジプト3000年展」「小津安二郎展」「加藤陶九郎展」博物館、高島屋、大丸、日曜日とあってどこもほぼ満員だった。美を求めてこんなにもたくさんの人が集っている中にあって、なんとなく嬉しかった。多美(旅)愛好家の私にとってエジプトは憧れの地、俳優を目指した私にとって映画は正に僕の青春だった。茶道を志した私にとって焼物は美であり、土への郷愁を誘う愛好物である。
 今日はびわこ・京都と文化の小旅行をした感じで素敵な春一番の、いい日多美立ちだった。
2005年 3月 6日 [日曜日]

お役に立たせて戴く有難さ。
 座喜味城址は世界遺産の一つになっている沖縄の名勝で、観光バスが来るぐらいのまだ有名ではないスポットだが、実はとてもいいところなのだ。春の朗報が舞い込んで来て、一挙3本立ての予定が入った。3,4月は芳野病院さん(北九州市若松)でのギャラリィー展示。2日は遊書をさせて戴く予定になっている。4月9・10日は読谷村、座喜味の長浜さんのお家で遊書展。東京でも写真家宮坂さんのスタヂオオープン記念のお話を戴いている。
進行中のお話が、字遊人・西口賢治が出美遊(デビュー)させて戴いた、アメリカ、カリフォルニア州のMtシャスタ、マックロードでの遊書展。昨年はお正月から神戸の舞子ヴィラでスタートさせていただいたが、今年は無く、ちょっと寂しいなぁと思っていたところにお声がかかって来た。そうなると今度は忙しくなってくる。第1回目をここシャスタで2002.4.27に出美遊させて頂いて丸3年、25回を数えて凱旋することになれるとは神のみぞ知ることとなる。私はいつも夢中だ。子どもたちと共に学ぶ塾の志事とボランテイア活動の2本立てをライフワークにさせて頂いて、皆さんのお役に立たせて戴く有難さの中で、イキルコトに一緒懸命になっている。
2005年 3月 5日 [土曜日]

故郷へ
 富島松五郎。この名前をご存知の方はどれぐらいいらっしゃるだろうか?口も荒いが気も荒いといわれる「無法松の一生」の主人公の名前だ。私は生まれた地の無法松と育った地の坂田三吉が好きだ。二人の豪放磊落は性質は私にはない部分として、その生き方に魅力を感じて強く惹かれる。
 若松の芳野病院さんから嬉しいご縁を戴いて、3月1日〜4月30日までの2ヶ月間、病院内のギャラリィーで遊書の展示をして戴くようになった。今日、その様子をインターネットで送って下さったが、実に見事に工夫して飾っていただいている。私の独自性でもある大型段ボールの作品を上手く展示してくださっているのには驚いた。(ご参考に芳野病院で検索してギャラリィーの所をクリックすると見ていただけます)
 北九州市戸畑生まれの私にとって若松・八幡・戸畑・小倉・門司という町は故郷だ。その故郷で、いつか遊書展をしたいと思っていたら、夢が叶った。増田さんという友人が尽力して下さった。これも夢を口にして話をさせて戴いたお蔭だと思う。3週間ほど前にお愛した時に「いつか故郷で遊書展をしたいと思っているので」と申し上げると動いて下さった。やはり「夢現の法則」は生きていると思う。
(2005年 3月 4日 [金曜日])

夢地蔵のお嫁入り
 ご縁を戴いて愛媛、今治の石彫家・馬越正八さんに、おそらく世界に一つしかない「夢地蔵さん」を彫っていただいた。12月に塾に来て、この受験シーズンの志事を済ませて、今日、ご縁を戴いてお嫁入りした。
 夢地蔵の文字を書かせて戴いたもので、夢が叶うという思いを託した。嫁入り先は大阪・東三国にある但馬屋さん。ここの入口に飾っていただくことになった。たくさんの人に手を合わせていただいて、それぞれの方が夢を誓って、夢に向かって日々を過ごされれば、皆さんが元気になられると思う。
 私の娘は今、24歳でアメリカで音楽の勉強中。いつの日か嫁いで行く日が来るのだろう。それにも似て、どうか可愛がって下さい。愛してあげて下さいと手を合わせる。
 今日はお日柄も良く、お雛様の節句の日。普通、お地蔵さんは男が多い、仏様は中性なのかもしれないが、この夢さんは観音様のような表情をした女性のお地蔵さん。土の上においていただいて竹の間に立たせていただいて、さぞ、喜んでいることだろう。
(2005年 3月 3日 [木曜日])

春一番
 甲子園の地は「春は選抜」からという言葉通り、23日から始まる選抜高校野球からやってくる。好天に恵まれて陽射しが強くなると日焼けする。今年は神戸国際大学附属高校が有力校として出場する。私が2年間お世話になった学校で、教師として出美遊した学校だ。戸畑高校は私の故郷の出場校だ。沖縄尚学は上位で九州代表として出場する。
 今年は第77回目、23日から始まるがダブルラッキィー7で何か、春一番の旋風が起きそうで期待が持てる。まさか北海道勢夏春連覇はないだろうが、何かが起きそうな気配だ。今年はちょっと熱心に観戦してみようかなぁという思いになっている。
地元のファンとして感じていることは優勝校の条件は勢いと監督さんの謙虚さ、そしてファンを味方につけることが重要だ。甲子園には女神がいる。勢いは実力以上に大切なもので、女神とファンが勢いをくれる。そして、女神は謙虚な監督さんが好きなようだ。日々、暖かさが増し、球春が近づくと、この地は和気和来してくる。 
(2005年 3月 2日 [水曜日])

胡蝶蘭の夢
 むかし、昔、セミナーを受けた時にイメージした美しい画像がある。私が蝶に成って地球の遥か彼方の宇宙を舞っている姿だ。
何を暗示しているかはわからないが、アメリカ人女性の講師の先生が「とてもいいイメージですよ」と仰って下さった。
 3月1日は塾にとってはお正月だ。今日、ここから新たな年度が始まる。その佳き日に28周年のお祝いにと胡蝶蘭が届いた。勿体無いぐらいに立派な蘭の花だ。この届けられたパッケージの箱、中身全てを使って作品を書かせて戴いた。
 
 感謝・歓謝・神謝
  今、命あることに
  今、生かされていることに
  今、ここにあることに

 この言葉を添えて次にお愛する日にお返しをさせて戴こうと思っている。私はどうやら「海老で鯛を釣る名人」のようで、いつも皆様から素晴らしいものを過分に頂戴している。それをお返しさせて戴くことは不可能で、それにお答えする力とお金がない。しかし、愛と心は一杯ある。これも考えれば皆さんから頂戴したもののように思う。結局、自分のものなど何もない。そう、みんな生まれた時は何も持たずに生まれて来たのだから仕方がない?
有難く頂戴して、誰かにお返しをさせて戴こうと思って、素直に神謝させていただいている。
(2005年 3月 1日 [火曜日])

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