日本心 |
私にとって多美とは、「美への巡礼」であるのかも知れない。私の中に流れる聖血が、どうしようもなく躍りだして多美を求める。そこに山があるから登るように、そこの美があるから、求めて止まない血が騒ぐらしい。 『いってらっしゃい 日本心の魂と愛を いちゃりば、ちょうでい〜』関空を出発する、寸前に我が愛擦る熊さんから入った携帯メールへのメッセージ。なんと素晴らしい言葉だろう。これこそが魂の言葉、心からのことばだと思う。それは頭からは出てこないコトバだ。熊さんは自然体に生きる中で、自然にこのような言葉を紡ぎだす名手だ。それは生きる中から生み出しているからなのだろう。まだまだ、私には及ばない聖域のように思える。 『頑張らなくてイイ、自然体で美笑(ほほえみ)が伝えられる人になろうよ』これが今、私が求めている課題。まだまだ課題だと認識している所に、自然体でないところがあるのだろう・・・ そのためにも美しい自然から、美しい人から美しい気を戴かせていただくことなのかもしれない。だから、私は美への巡礼の多美を求めてやまない・・・。 (2005年 4月 30日 [土曜日])
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聖血 |
人間には体内に血が流れている。この血が体を作り、その想いもまた、この血が大きく影響しているように思える。だから、美しい血を自分の中にいつも流していなければならない。 人は皆、自分の聖地を持つべきだと思う。信じることは自分を持つことであり、自分を強くすることであると思う。「心自流」美しい心が自然に流れるように、美しい血が体の中に流れるように・・・。そうすれば決して心の美しさを忘れないように思う。 人の世の濁流に飲み込まれ、金まみれの中で自分を見失ってしまうのは、人の世の常、何が幸せなのか、何が大切なのか、自分を見失った者にそれが判ろうはずは無い。 聖地に気郷しよう。気郷したい。気郷を・・・と思うだけでも自分の心はあらわれる筈だ。山の聖地、Mtシャスタ。海の聖地、美世咲。そこにいなくても、行けなくても、行かなくても、心にあるだけで、私は自分自信(自身)をしっかり持つことができるような気がする。心に想ったとき、手を合わせる。手を合わせたとき、感謝の心が生まれる。その時、産んで下さった両親とこの宇宙に感謝せざるを得ない気が起きて来る。 (2005年 4月 29日 [金曜日])
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聖地Mtシャスタに愛を書く |
シャスタは雲に隠れて見えない。しかし、眼を閉じるとその素晴らしい神々しい姿がはっきりと見え、気が伝わってくる。それは宇宙に抱かれているような、神々の懐にたおやかに包まれているような暖かなものだ。それはここの気を吸わないとわからないものかも知れない。 去年の多美で、敦煌の鳴沙山の砂漠に「愛」を書いてきた。沖縄の僕にとっての聖地である「美世咲」の浜に「愛と平和」を記して来た。そして、このアメリカ大陸の霊山の無垢な雪の大地に「愛」を記した。決してそうしようと思ったのではなく、自然に書いてみたいと思った。そして、その瞬間に世界五大陸の地に「愛を記す巡礼の多美」が始まった・・・。何のために・・・。大河の一滴がいつか海の水に繋がるように、微塵の無に近い私のこの想いもいつか世界平和に繋がるかも知れないから・・・。 (2005年 4月 28日 [木曜日])
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気郷(ききょう) |
遊書展inUSA 4/27〜5/2 マウントシャスタ 5/3 〜5/6 オーランド 5/7 〜5/9 ニューヨーク 5/10 帰国 帰郷は故郷へ帰ること。『気郷』はここシャスタが気の故郷、魂の故郷であって、そこへ帰ることを意味する。これはストーニィーブルックインのオーナー鈴木さんからのリクエストで書かせて戴いた言葉。『気響』私にとってここは気が響き合う故郷だ。そして、ここ数年、気響する人、お互いに気が響きあう人とお出愛させて戴くことが多い。これからも気響を求めて、イイ人と出愛たい。そんな言い方をすると?かもしれないが、イイ人としか出会わない・・・。 気郷の多美が今、ここから始まる。 (2005年 4月 27日 [水曜日])
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おじいちゃんの拍手 |
北九州市若松の若戸大橋の袂に芳野病院さんがある。若くていかにも知性に溢れた気品ある顔立ちの院長・理事長さんがいらっしゃって、今回、ご縁を戴いて老齢の患者さんとデイ・サービスの老人養護のお母さんお父さん方、一般的にはおじいちゃんおばあちゃん方に色紙、段ボールに字遊を書かせて戴いた。院長先生には昼食をご一緒させて頂き、院内特に屋上の庭園を案内していただき、その人となりにふれさせていただいて、とても爽やかな気持ちにして頂いて字遊させて戴いた。 100人近く、80人前後の方だっただろうか、心から喜んでくださって、その喜びを感じて下さった分の2倍以上、私が歓びを戴いた、正に歓謝の言葉がぴったりであった。デイ・サービスを後にして部屋を出ていくときに、一人のおじいちゃんが手をたたいて拍手をして下さり、皆さんが手をたたいてお見送り下さった。こんな感激的なことは、そうそう人生で体験できるものではない?でも、御蔭さんで遊書展を通じて、いつも皆さんから感動を頂戴させていただいている。 今回のお世話をして下さった、担当の園田さんがまた、ナイスガイで心配り良好で、気持ちよく字遊できたのは幸せだった。折角の故郷小倉ということで、夕食をご馳走して下さり海の幸・味の幸・優情の人の幸を満喫させて戴いた。あのおじいちゃん、おばあちゃんの笑顔と涙が僕のパワーとなって字遊にエネルギィーを与えてくれる。 カンボジアの学校建設資金にと過分のご寄付を戴いた、これは芳野理事長様・園田さん・立花総務部長さんはじめ看護部長さん、皆さんのお心として、有難く頂戴させていただいた。本音としてもう一つ嬉しかったことは、お車代としてもお志を戴いた。沖縄でも東京でもアメリカ・中国でも自前で活動させて戴いているので、交通費・諸費用の軍資金が乏しくなって来ている。その中でこういう形は大助かりだ。でも、勿体無くて私費としては使えないので、アメリカのお母さん、ミリアムのお墓の供養としての花代にさせていただこうと思っている。その方が皆さんのお志としての心がもっと大きくなるように思う。 (2005年 4月 25日 [月曜日])
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魂込め(まぶいぐみ) |
新幹線小倉駅前に伊勢丹デパートがある。その地下1Fのフロアーに「九州のムラ」をテーマにした食事処が29日にオープンする。そのレイアウトのお手伝いで書を書かせて戴いた。「素人だから素直な心を大切にする人でありたい」この思いを大切にして書かせて戴いた。大分の山林から直送されて来た木材の板に直接書かせていただく分は流石に難しいものだった。いろいろな場所に少し多いぐらいに書かせて戴いた感があるがのだが、ここにいらっしゃる皆さんは誰もここに書を見に来られるんではない。ムラの美味しいものを食べに来られるのだ。いつも主人公は人である。ここでは食べ物である。さりげなく目立たぬようにあるかないかのように控えめにある。それが茶道人の心であり、望ましい形のようである。食事処だから、書家の芸術的な書よりも、素人の親しみ安い字の方が食べ物も美味しくなる。ご依頼も「魂」を入れて下さいということだったので、私だけの魂ではなく、私を支えてくださり育ててくださっている多くの仲間たちの想い、魂も一緒に入れさせて戴いたと思っている。 村ちゃんという、初めて私がアメリカのシャスタで出美遊させて戴いたときに同行していただいて、おこがましくも「師匠」と私のことを呼んで下さる一番の仲間からの以来、お手伝いをさせて戴いた。村ちゃんが九州のムラの志事をしているのでうまくいくのは確かなはずだ。 (2005年 4月 24日 [日曜日])
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教育は感化である |
あきらめずにやる 必ず後から出合いが・・・ でも、たくさんがんばった後の 出合いは少しちがう 【出愛】 たくさんがんばった たくさんの出愛 あきらめずにがんばる 祐次 小学校6年生の生徒さんが書いてもって来て下さった作品です。事務所の入口の掲示板に掛けさせていただいています。私がいろいろなものに書かせて戴いたものを掲示させていただいたり、配布したりしているのを生徒さんが見てくださっているのでしょう。初めて生徒さんが書いてもって来て下さいました。 お習字を習っていて、パソコンも使う彼は直筆とPCの作品と両方持って来て下さいました。有難いことです。12歳の子供の感性が滲み出ています。素敵な言葉です。 (2005年 4月 23日 [土曜日])
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みるくゆがふ |
◎「みるくゆがふ」ですが、沖縄の歌の中で初めて出会い、意味がわからず調べたら、沖縄の言葉で弥勒菩薩が支配する平和で穏やかな世界、黄金の稲穂が風にそよぎ、平穏な豊かな世の中のことと、あるホームページで読みました。 ひらがなにすると弥勒菩薩のような本当に優しい印象になります。平和で穏やかで、あまり貧富の差がない世界が早く来てくれることを願っています。 ◎美留来癒河風= みるくゆがふ 癒しの美しい風が大河となって来て留まる。弥勒菩薩の弥勒、みろくがみるくになっているんですね。ウチナーぐちは本当に大好きです。 ■本日の私のメールのやり取りの一部です■ 『ゆがふ』作詞西口賢治 涙を流したその分は 優しくなって笑顔になれる この世におけるすべてのことは 何来無差(なんくるないさ) この世は楽園 ウチナーはゆがふ 汗を流したその分は がまんを知って大きくなれる 神が与えしすべてのことは 何来無差(なんくるないさ) この世は花園 我らがゆがふ 情を流したその分は 哀しみ知って優しくなれる この世に生まれるすべてのものは 何来無差(なんくるないさ) この世は天国 みんなのゆがふ (2005年 4月 22日 [金曜日])
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国際免許 |
阪神地区の免許更新センターはJR伊丹駅の近くにある。今回の渡航に伴って国際免許の申請に行って来た。窓口の担当官の方の気持ち良かったこと。大袈裟に言えば、官公庁・役所窓口の人はぜひ、見習って欲しいと思った。目の前で作成している間中、ずっと退屈しないように話しかけてくださった。主な話は、私が塾長ということで教育談義。「頭がいいことよりも心ですよね」これは私の言葉を受けての感想も含めてのコメント。その上に、アメリカ渡航事情のアドバイス。検査が厳しく、バッグのキィーを壊されることもありますよ、から、絶対に貴重品をバッグに入れないことと優しく丁寧に話して下さった。印象に残った言葉は「自分の仕事に誇りを持つ」という言葉だ。これだなあとつくづく思った、自分の仕事に誇りを持てば、マニュアルやノウハウでなく、自然にいい仕事ができるはずだ。必ず、相手に真心が通じるはずだ。担当官の方の年齢はおそらく60代、勿論、私より先輩だ。言葉遣いは敬語、2,3度、いいことを教えていただきました。勉強になりましたと仰った。会う人会う人に爽やかさと、云えば、幸せを配っておられるのだろうと思う。 段取りが悪いと小1時間はかかるところ、駐車代金が150円の30分以内ですんだ。何か得をしたような嬉しさが残る。考えて見れば、この方は何もお金を使ったり、サービスの向上のために経費をかけてということもなく、真心の想いと言葉でお客様を幸せに する。この方は、真の意味で豊かな生活を送っておられるのだろうと学ばせて頂いた。 (2005年 4月 21日 [木曜日])
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英吉利・仏蘭西・西班牙 |
「イギリス人は考えてから歩く。フランス人は歩きながら考える。スペイン人は歩き終わってから考える。」 〜日本人の言語表現・金田一春彦より〜〔中2国語授業より〕 この文の1節は20年ぐらい前に大学入試問題にも引用されていて、予備校生に教えてことがあった。僕の記憶ではスペイン人はイタリア人だと思っていたので、記憶とはいい加減なものだと思う。ちなみに日本人にとってスペイン人はなじみが薄いのでピンと来ないところがある。さしずめ、イタリア人は走ってから考えるのだろうか?「日本人は言い訳してから歩く」と書かれているので、これは痛烈なる批評である。「アメリカ人は全てを正当化してから歩く」「中国人は歩いてから言い訳する」これは小生の感想だが深い意味はない。 13歳の生徒さんたちに、自己分析してもらって自分は3つの内のどのタイプかと聞いたところ、ほぼ私の把握と一致しており、なんとなく嬉しいものを感じた。彼らもまた、私達が思っている以上にいろいろなことを感じ考えているようだ。思い当てれば、世のお母さん族が子供たちの思考力の妨げをしている傾向が強いようだ。「もうちょっと考えて見なさい」「ちょっと考えてから行動しィ」「何考えてんの」と命令して、考えさせる【間】を与えていない。お叱りを受けるかもしれないが、お母さんこそもう少し考えて言動してもらえれば、子供たちは思考習慣をもう少しつけてくれるような気がする。 TPO.ケースバイケース。時に応じて使い分けられる国際人になれたら素晴らしいと思う。偏るといけない、事によってイギリス人になり、フランス人になり、日本人になる。しかし、言い訳をしてから行動するはいい過ぎだ。控えめで失敗に対して人に迷惑をかけてはならないという思いが強いために、お断りを先に申し上げておいて、期待過剰にならないようにその期待に責任感強く応えたいための言い訳ではなく、事前のご挨拶だろうと思われる。近年、いい意味でも悪い意味でもその傾向が薄れ、アメリカ人的になっているように思う。日本人は相手に合わせる主体性を過去大切にしてきた国民だと思う。You are OK.I'm OK.今こそ、意識・思考・行動面においての国際人を目指す時だと思う。 (2005年 4月 20日 [水曜日])
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水は答えを知っているA |
「言葉とは、宇宙のあらゆるものに周波数を合わせられるスイッチのようなものと考えてもよいでしょう。あるいは、どんな場所にも飛んでいってスイッチを入れるリモコンのようなものかもしれません。言葉を自在に使いこなせるのは、人間だけです。そのことは、とりもなおさず宇宙に存在するすべてのものに波長を合わせられるということでもあります。さらに、波動は瞬時に伝わります。言葉や思いも、発した瞬間に、どんな場所にも飛んでいくのです」〜『水は答えを知っているA』より〜 Mさんとい20代の素敵な女性が、言葉のこと・波動のこと・水のことを話して下さって、私の遊書を見て、是非にと言ってこの本を薦めて下さったものである。 ネットで古本を購入して、早速、読みきった。水の大切さ、そして、言葉の大切さがあいてあり、共鳴・感動する部分が多い。私が字遊に書き換えている文字も、見た目に感性でとらえてポジティブな漢字を書き換えさせていただいている。「心燃・心鮮・心賢」「美心・美笑・美感」「夢人・夢運・夢縁・夢情」など、 (2005年 4月 19日 [火曜日])
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映画鑑賞 |
コンスタンティン 主演/キアヌ・リーブス 『この映画は、数百本に1本の、時代を動かす作品になるかもしれない』パンフレットの解説書にはこう書かれている。何に対してそう言っているかは定かではないが、筆者にとっては意味深長な作品であった。天国と地獄、その間にある人間の世界。天使と悪魔、人間はその両面を持って生きているのだろうか?そんなことを考えさせられた。天使も悪魔も人間界を侵犯しないというルールで生きているらしい。それが乱れてきて、今、悪魔が人間の心の中に侵入してこようとしている。日本をはじめ世界中の一部の悪い人たちを見ていると、そういわれてみると納得してしまうほどに悪事が横行している。この映画では天国の場面は映し出されていないが、地獄の場面は随所に見せられる。これは製作者の意図なのであり、警告なのかもしれない。 キアヌ・リーブス演じるジョン・コンスタンティンがその悪魔と戦う。この映画は単純な勧善懲悪のストリィーではなく、いろいろなこと、これからの世界について、人間について考えさせられるものが多い。「父と子の御名の聖霊において」という言葉が、とても気になるぐらいに数度繰り返されたが、欧米にはこのような言葉がある分、悪事に対しての制御装置としての働きをする言葉があるが、今の日本には、念仏を唱える。その言葉を使うことによって悪事に対して制御したり、理性的な判断・行動をさせる言葉というものがない。これは、これからの時代においてはとても大事なことのように思われる。例えば、仏教で使われる、「南無阿弥陀仏」、これを唱えようものなら胡散臭く思われ、格好悪いと思われかねない。ポジティブな愛言葉が日本人にはないことに危惧するものを感じる。想いにしても言葉にしても「信じる」ものがあるのとないのとでは、精神の安定においても、もっと身近なストレスのことを考えても雲泥の差がある。今の日本も世界も、言葉が乱れ水が汚れ、それに正比例して人の心も乱れきっているように思える。良化する兆しがないところに大いなる怖さを感じる。この映画でも『水は全てに繋がっている』といセリフにドキッとさせられるものを感じた。この地球は水に囲まれている。人間の体の70%は水と考えることができる。基が汚れれば当然、思想も言語も行動も乱れていく傾向になってしまうだろう。2005年、21世紀の千年紀の前後10年として、世界が廃れて来ているよな気がしてならない。昔、むかし、そのムカシの社会は経済が基盤ではなかったので、今日のようにお金がオールマイテイではなかった、その分、思想などが人心を動かしていたとも言える。今世紀の課題は「精神と物質の戦争」の世紀かも知れない。 思考の原資は言葉だ。言葉の乱れは、当面の生活にはなんら影響は内容に思われる。それは形として、はっきり見えないからだろう。精神と物質の戦いが始まるならばこそ、教育の重要性が尚更のこと問われて来るはずだ。受験戦争という言葉は使わないようになってきたが、今、そして、これから塾が何をするべきか。ターニングポイントにさしかかっているのかも知れない。歴史は、後になって語られ、後になって評価される。私達は時の証人として、今、何が大事なことなのかを「美しい言葉」で把握しなければならない。歌を忘れたカナリアは捨てられ、言葉を軽視した国民は主体性を失う。 (2005年 4月 18日 [月曜日])
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We are family |
美世咲の輪、和、おおきな和(沖縄)が拡がっている。熊さんがオーナーのペンションびせざきは、勿論、泊まったお客さんが全員というのではないが、繋がりあって家族のような絆が生まれる。熊さんの家族5人とご両親の7人のアットホームな雰囲気『気』がお客様に溶け合ってそこに絆が生まれる。この気に稲嶺盛吉先生の泡ガラスが向かえ、ほんのちょっと小生にの遊書もお役立ちさせていただけているのかどうか、みんなが一つの共通意識を持ってテーブルを囲んで食し飲み語り、それで仲間意識、家族の繋がりが生まれる。 9,10日の遊書展にお手伝いに来て下さった山本さんは、一度もお愛したことのない方であったが、1日ずっとサポートして下さった。そして、その夜の集い愛、語り愛で家族になってしまう。山本さんはジュエリィーのデザイナー。私が2年目からお守り代わりに身につけているマザーテレサのペンダントはローマ、バチカンの寺院で買ったもので、紐で吊るされていて、古くなりきれそうでもあり不自由を感じていた。横に座りあった時に、事情をお話して、私は気軽に紐を治していただけるとうれしいなぁと思ってお願いしたところ「いいですよ」と仰っていただいて、お願いをしていた。今日、沖縄からお送りいただいた。 それはパールのペンダントになっていて「芸術品」に変っていた。その一粒一粒が山本さんの愛を繋ぎ合わせたように、見事に美しく紡がれていた。マザーのコインも薄汚れていたのが素晴らしいいぶし銀の輝きを放っている。想いと愛を戴いたようで身につけているだけで、私の遊書に大きなパワーを戴いたような気がする。神謝・歓謝・感謝。山本さんに直接、恩返しはできないかも知れないけれど、誰かにお返しさせていだこうと思う。 この地球の75億の民が一つの家族のように繋がることは不可能なのだろうか・・・。できることから始めたい。想いだけはもっていたい・・・。 (2005年 4月 17日 [日曜日])
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冶留気=やる気 |
高校入試分析会を各校舎4校で順番にさせて頂いている。子供たちは間違いなく「やる気の芽」はもっている。しかし、そのままにしておいてはその芽は出てこない。発芽条件として[水・温度・空気]が必要なように、親や教師がその条件を整えてやらなければならない。[夢・愛・言葉]がやる気を育てる生育、成長条件だと思う。中でも一番重要な要素が「言葉」だ。言魂(ことだま)、言葉には魂がある。普通は言霊と書くが、霊という字が見た目、感じ方に少し抵抗がある。そういうと魂という字は、鬼が云うと書く。これは云った言葉には鬼のような強い固い意志で貫くものと思っている。夢・愛・言葉=夢現の合言葉で周りからも励まされ、自らも自分を啓発する夢現の合言葉を持って頑張っていくことが、やる気の芽を育てていくことだ。冶留気(やるき)=正しい良い気を留めて治める。正しい気を持つことが今、難しい時代になっている。言葉は表現することによってエネルギィーを発しパワーを持つ。だから、正しい良い言葉を使わなくてはいけない。子供たちは悪い言葉によって悪い影響を受けすぎている。 ここ数十年、言葉が乱れ水が汚れ過ぎた、それに正比例して日本人の行動、犯罪が悪劣非道になってきている。その中で。子供たちに伸び伸びとして明るく元気なやる気を育むのは、容易ではない。それは大人が自覚すべきことだと思う。 (2005年 4月 16日 [土曜日])
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募金 |
20数年前から、教室でお母さん方を対象に「文学講座」をさせて頂いている。最近は文学講座とは名ばかりで、もっぱら私の雑談を聞きに来て下さっている。今回は4月の花見月ということで水木さんのお家に集まってチラシ寿司を戴きながら、楽しいひと時を過ごさせて戴いた。生徒さんというのにはおこがましく、平均年齢は60歳以上。古い生徒さんは年数で言えば23年生。まず学校では考えられない親と先生の繋がりだと思える。多い時は20数名、現在は9名で定着している。その中のお一人に溝上さんという方がいらっしゃって、「先生、これは私は家からここまで歩いて来てます。バス代を募金させて下さい」と1000円を下さった。健康のために歩いていると仰って下さるが、西宮戎神社から甲子園口まで、いわば西宮市を横断する形でゆうに1時間近くかかるのではないだろうか?先ず100人いらっしゃれば99人は、そのようなことをされないだろうと私には思えること。そう言えばこの方は菩薩様のように優しい方だ。毎月1度、第二木曜日にさせて頂いている文学講座は、皆さんが私に愛を寄せて下さっている集まりでもあると感謝している。お互い様で続く限りさせていただこうと励ましあっている。 (2005年 4月 15日 [金曜日])
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甲子園 |
2年前、阪神が優勝した年に中3の生徒さんと3人で甲子園に応援に行った。この時の事をお母さんが覚えていてくださったのでしょうか?アルプス席のチケットが4枚ありますということでプレゼントしていただいた。お知り合いの方にもお声をかけさせていただいたが都合がつかず、そのような流れになっていたのでしょう。この春、受験で頑張ったピカピカの高校1年生の女の子3人と一緒に行った。 残念ながら8−1の完敗。宿敵巨人を生き返らせる試合をしてしまった。野球と言うゲームにも人生というゲーム?にも「流れ」「勢い」というものがあるのだろう。1−1でツーアウト3塁の攻撃の場面で藤本がヒット1本打っていれば、形成は逆転していたように思える。上原は手元で球が伸びていたのだろう。みんなが詰まっていた。片や福原は去年巨人から6勝もしているように、バッティングピッチャーのように打ち込まれた。勝負というものは強いから勝つというわけにはいかない。だから、野球も人生も面白いのだろう。 甲子園は大正時代、干支の一番始めに当たる甲乙丙丁、子丑寅の甲の子の年にできたことに由来している。我らが甲子園学習塾は地名から戴いたものであるが、甲は一番という意味、子は子供。園は学習の場。「甲子園の星 人生というグランドで君を甲子園の星に育てたい」これを願っている。 (2005年 4月 14日 [木曜日])
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故郷に |
「故郷は遠きにありて思うもの、そしてかなしく歌うもの、よしやうらぶれて異土のかたいとなるとても、帰るところにあるまじき」室生犀星の詩で私が高校教師をしている時に、藤村の初恋かこの詩のどちらかを暗誦させていたものである。 私の故郷は北九州市戸畑、今、若松の芳野病院さんで遊書展の展示をしていただいており、25日には実演をして皆さんに貰っていただくようになっている。24日は新幹線の小倉駅前の伊勢丹デパートの地下の売り場、『農』をテーマにした場所に字を書かせていただくことになっている。 正直なところ、恐れ多い部分とオコガマシクテと思う所があるが、これも何かのご縁、天の計らいと思ってお受けさせていただいている。もし、巧い字を依頼されるのであればその筋に、ブランドを求められるなら有名な書家に頼まれるだろう。そうではなく私に言ってくださるのは、私の字に何かを求めて下さっているのであろう。私は今、文字を通じて「愛」と「気」を伝えたいと願っている。文字からの波動がいいものでありたいと祈念している。見てくださる人にほっとしたものを伝えたい。それが私の字遊の世界である。 (2005年 4月 13日 [水曜日])
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愛擦(あいさつ) |
愛を擦り込む。これが教育の原点ともいえる。3年前、カリフォルニアのマウントシャスタで遊書展の出美遊(デビュー)をさせて戴いた時、ニコールという11歳の女の子が一日中側にいてくれて、ストロークをたくさんくれた。両親が離婚をしておばあちゃんとマックロードのストニィーブルックインの近くに住んでいる金髪の女の子。何度も何度も私に擦り寄って来て、親愛の情を示してくれた。今、思い起こすと彼女がハグ(覇来=覇気が来る)することの大切さ、愛を擦り込むことの素晴らしさを教えてくれたような気がする。日本人にとって素直な感情表現としてのハグには抵抗がある。あの時の私もまだそうだったような気がする。しかし、ニコールの素直な愛情表現で私はハグが自然にできるようになった。今回のシャスタ行きは母なる山に呼ばれいるように感じていたが、ニコールが呼んでくれているのかも知れないと思う。私にとって天使のような気がする。思い起こせば「平和」という字を筆で書いてくれた。今、私にはたくさんの天使がいる。その天使が気を通じて愛を送って下さり、愛を擦り込んでくださる。それを字遊に遊書させて頂いて皆さんに買っていただいて、ボランテイアの募金にさせていただいている。 中国の劉さんとの蘇州での覇来、今年の中3生の合格時の覇来、出愛った人たちと老若男女を問わずにナチュラルに覇来できるよう愛を擦り込んでくれたのはニコールだったのだ。11才の彼女が14歳になっている。ストーニィーブルックインの吉川さんのメールの中にニコールの名前を見つけて、不思議な出愛、人が愛で繋がり会っていることを実感する。愛擦・覇来の素晴らしさを私は11才の少女から教えていただいた。この出愛は本当に自分を変え、人生を変えているものになっている。ニコールはシャスタの天使なのかもしれない。 (2005年 4月 12日 [火曜日])
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魂生の聖地 |
今月の27日から5月2日、アメリカ、カリフォルニアのMtシャスタでチャリテイー遊書展をさせて戴くに当たって、地元の新聞社から、お世話して下さる鈴木さん吉川さんを通じてインタビューが寄せられた。以下はその小生の回答です。 新聞社のインタビュウの和訳を送ります。 出来る限りで結構ですので、お答え下さい。 1、書道を初められたきっかけは何ですか? ■美への憧れと創作活動への欲求です。書道の道の部分の精神修養の硬いことは考えていません。 「遊書」ということで遊び心です。日本の古典文化・芸能は高尚な遊び心が原点だと思っています。 書道をされることによって得られるものはなにでしょう? ■安らぎ・愉しみ・心の平安です。書く人も見る人も、そのようなものを求めています。 2、書道のもっとも美しい部分はなにですか? ■「白と黒の芸術」と言われていますが、私の場合は視覚を超えた感覚的世界の文字が表現する波動と気の伝達です。 3、日本の伝統によると、書道とは白い半紙に書くものとされてますが、先生の様にダンボールとか木片の様なユニークな素材に書かれるようになったいきさつをご説明下さい。 ■茶道(これは免許皆伝です)・書道・華道などの素晴らしい日本文化の伝統が、今や、日常生活から分離しています。 このような素晴らしいものを、もっと日常生活に密着させて気軽で気楽なものにするための挑戦と試みです。 4、書道を通して先生は何を伝えたい(表現されたい)ですか? ■相対、書く人と見る人の感性の一致。見る人がホッとするような「気」を伝えたい。 それぞれの作品にメッセージがあるのでしょうか? ■漢字は一字一字に意味がある、表意文字です。これは東洋の知恵だと思います。 すばらしい表意文字の特性を表現したい。肯定的な意味のある文字しか書きません。例えば「年中無休」この文字を見たときの潜在意識の反応は(しんどいなあ)と疲れますが、年中夢求の文字に変えると、元気が出ます。出会いはmeetですが、出愛に変えると出会った人に愛を出すことと言うのが、本当の出愛であると、大脳、潜在意識がとらえると考えています。 先生の創作活動の概念(コンセプト)は何でしょうか? ■「愛と平和」見てくださる人によいヒーリングを感じていただくこと。 前回のアメリカでの個展に来られた方から何を感じ得ましたか? ■芸術・美は国境を越える。遊書を通じて意志ではなく、気の伝達、コミュニケーションが計れたと思っています。 もう1点はチャリテイー・ボランテイアに対する、「自然な想い」を学ばせていただきました。 5、個展を開かれる先々で寄付を募り、それを地元に還元される理由は何故ですか? ■現在はカンボジア学校建設資金の募金をしています。目標額220万円、現在240万円達成。 来年の4月に寄付、11月建設完成予定です。今回のシャスタでは地元に還元させて戴く予定です。 ■私は書道家、プロではありません。ビジネスとしての創作活動ではなく、自由な創作活動の中で「純粋な想い」を表現したいと思っています。お金を貰うと表現の中にお金の思いが入るといい作品が書けないと考えています。 「世のため人のため」皆様のお役に立てて喜んでいただく、素晴らしさ、喜びをいつも感じているからです。 2歳の時に小児マヒになりそれが治ったのは奇蹟的なことです。私にとってボランテイア活動は、その奇蹟に対する、恩返し使命だと思っています。「小さなことをできることから始めよう」この心を大切にさせていただいています。 6、究極の質問です。 何故、シャスタ山なのですか? シャスタ山は先生にとってどの様な存在なのでしょうか? ■魂の故郷です。気を感じる所です。2002年4月27日 字遊人西口賢治が生まれた所です。 これ以来、人間西口賢治の人生が好転しています。人それぞれに自分にとっての聖地があると思います。 詩野寿多=多くさんの寿ばらしいこと、詩・言葉のある野です。 7、シャスタでの第二回目の個展に先だって、何かシャスタの方にお伝えしたいこと、頼みたいこと、協力を願いたいこと、その他、何か希望されることはありますか? ■一人でも多くの方と出愛をしたい。お互いに充分に言葉が通じなくても、気は通じると信じています。 皆様の愛の心を寄せていただいて、募金活動、チャリテイ遊書にご協力いただけたら光栄です。 魂生(こんじょう)の聖地、魂の生まれた聖地へ4月27日に帰る・・・。 (2005年 4月 11日 [月曜日])
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遊書展・優笑店 |
長浜邸での遊書展がとても楽しく素晴らしく終わった。なんと皺エなことだろうか。早速、皆さんの素晴らしいメッセージが届いている。 ■賢ちゃん、たくさん・いっぱい有難う。お客様はみんな大満足しておりました。ありがとうをたくさんいただきました!■今日はとても心がいっぱいです。感謝です。■西口さんの愛は感じました。不思議な素敵な方です。■挑戦のイメージで書かれた「光」の文字は、私に新しい気をくれるように思えます。インスピーレーションに合う作品にも出会えたし、たくさんの出愛もあった。■賢ちゃんからたくさんの愛(パワー)をもらった今回のお客様たちは(私も含めて)とても幸せです!賢ちゃんが私達を愛してくれた分、それ以上に私達も賢ちゃんを愛しています。 『愛したら愛される 天地人の法則』 皆さんが喜んでくださった分、感動して下さった分、何人の方が来て下さったのでしょうか。私はその人数分の愛と感動を戴いている。200人分用意した「母情」がほとんどなくなっているようだ。これからも出愛の遊書展を続けさせていただこう。 いつもサポートして下さっているたくさんの方、特に中垣さん夫婦、小百合さんは後片付けに合わせて来て下さった。今回は福岡から小比木さん、大阪から入口さん。そして、東京からプロのカメラマンの宮坂さん夫婦が来て下さって、大盛会、大成功に終わらせて戴いた。ボランテイアの活動はその裏でもっと大きなボランテイアをサポートして下さる方がいないとできない。そして、その蔭でまた、お手伝いして下さる方がいないとできない。お蔭様と感謝の連帯・連愛、これがボランテイアの精神かもしれないと思う。114000円の募金を戴いた。感謝・神謝・歓謝 (2005年 4月 10日 [日曜日])
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小宇宙、海厨(みくり) |
美世咲(ペンションびせざき)の食事処である寿司席、海厨はオーナーの熊本保美さんの聖域・聖地・マウンドである。 6人が座れる寿司席で、ここで熊さんは命を懸ける。今日のお客様は知念会長(小生の師匠)、宮坂様ご夫婦(プロカメラマン)入口さん(牛心のマネージャー)、友利さん(昨年の遊書展開催者)、由美ちゃん(今年の遊書展開催者)の6名。小生はカウンター、一枚板の内側、いわば熊さんの聖地に初めて入れて頂いた。ここでの海の幸を中心にした料理は熊さんの「一食懸命」=「一人良懸命」一人の良い人のために命を懸ける料理。そのお客様を持て成す心尽くしはプロ中のプロ、超一流。懸命という言葉が相応しい。私が家族を別にして「この地上で一番愛する人」と紹介させて戴いている人で、字遊人西口賢治の産みの親。 ここは小宇宙でいつも素晴らしい気が充満していて、ここでの「大きな和」が醸し出す『宇気=雰囲気』は熊さんを中心にして、人・気・和・食・心・一は、ここへ行って食事をして見ないと判らない。それでは行って食べて美味しさを味わったらわかるかと言うと、そうでもない。それが「小宇宙」の不思議さかも知れない。長浜邸で一日目の遊書展を終えさせていただいて、そこに集ってくださった人の和で食するものは最高の幸せのレシピ、本物の味だと思う。 (2005年 4月 9日 [土曜日])
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沖縄へ |
■ 9・10・11日 沖縄・座喜味 「遊書展と夢語り」 ■25日 北九州市若松/芳野病院 遊書展 ■北九州市 小倉駅前デパートのレイアウトで壁に書かせていた だくことになっています。 皆さんからたくさんの愛と気を戴いて帰ってきます。 (2005年 4月 8日 [金曜日])
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薫陶・訓灯 |
薫陶=(焚いた香のかおりをしみこませ、形をととのえて陶器を作る、意から)その人の優れた人格で他人を知らず知らずうちに感化し、立派な人間にすること。 訓灯=灯台の灯のように訓え諭して人間を育てること。 小学校4年生から訓えさせていただいたO君とOさん兄妹。それぞれが大学、高校へと進学して行った。今日、家内がO兄妹のお母さんに会って、「嬉しいうれしいビッグな知らせがある」といって戻って来た。O君は大学で茶道部に入るらしい。Oさんは高校で書道を選択するらしい。私の国語の授業で茶道の素晴らしさは折にふれて何度か語ってきたのだろう。遊書は塾生は身近にふれてきている。決して、その良さ、素晴らしさは語っても、することを薦めたことはないだろうと思う。それを大学の茶道部に入るというのだから、やはり影響を与えたのであろうか?うれしさを超越して、いい意味での責任すら感じる。 O兄妹さんのお母さんには多くのことを学ばせて頂いた。6年生の時、受験前の12月の懇談をスッポかしたことがある。うっかり忘れて病院へいっていた。理由を問われて、一切、言い訳せず申し開きもせず、頭を下げて許して戴いた。これは私の小4の時の恩師の訓えであり戒めだ。「お詫びに何とか合格できるように尽力します」と言って、合格させられなかった。普通はここでご縁が切れてしまう。でもO兄妹のお母さんは続けて来て下さった。12年の歳月が流れる。塾はこのような想いのお母さん方に支えられてご指導をさせて戴いている。これに神謝する気持ちのない人間には、教える資格などない。この思いを訓えさせていただくという情熱に昇華させていかなければならないのだ。それが人の道、教師道だと思う。燦求燦給、神謝・歓謝・感謝。 (2005年 4月 7日 [木曜日])
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楽しくなければ塾じゃない |
学ぶこと、いろいろなことを知るという楽しさ。先生の授業、話の楽しさ。仲間と顔を合わすという楽しさ。成績が上がるという楽しさ。勉強そのものは決して楽しく面白いものではないが、いろいろな楽しさ面白さはあるはずだし、私達はそれを提供するプロでなければならないと思っている。子供たちが自ら探し見つけて掴んでくれたら有難い事であるが、残念ながらそうはいかないので、こちらがうまく掴ませる、提供するという働きかけをするべきであると思う。 頭がいいとか悪いとか、誰がどのような基準で決めて言っているのだろう。ほとんどは勉強しない子や、成績の芳しくない親が言い訳に使う言葉が「頭がいい悪い」という言葉のようだ。東大・阪大・慶応などに進学して行った子供たちを見ていて、流石に頭がいいと感心したことなどはない。東大へ行ったN君は、やはり一番よく勉強した。慶応へ行ったS君は3年間、無遅刻無欠席で塾の全ての行事に参加した。阪大へ行ったT君は、小学校時代はスローだったが、コツコツと着実に取り組んだ。ほとんど、勉強もしていないのに、大変良くできたというケースなんてない。共通項で言えるのは授業態度がピカ一であった。集中と熱心さが優れていた。静かに燃えるタイプでしっかりと授業を受けて、「だいたい」ではなく、確実に理解をして学力をつけていった。もう一つは、人の話を素直に聴くという姿勢、心構えが優秀だったように思える。これは一つの大きな才能ではないかと思える。大人になっても人の話を素直に聴くということは重要なことだ。そのためにはいい人、いいものとの出愛が大切だと思う。私自身はその点で大いに感謝できる。 この次は自分がそういわれる人になりたいものである。 (2005年 4月 6日 [水曜日])
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詩野寿多(シヤスタ)ネットの集い |
2002.4月、誘いを受けて訪れた地、マウントシャスタ。 ストニィーブルックインのオーナー鈴木弘美さんから、昨日、電話を受けて、「今、大阪です。明日、シャスタの集まりがあるのですが、いらっしゃいませんか?」とまさしくサプライズのお誘い。この連休に25回目の遊書展をシャスタでさせて戴くことが決まり、鈴木さんの帰国の予定もお聴きしていたが、それにしても突然で1も2もなくお愛しに行って来た。アメリカカリフォルニア州サンフランシスコから車で5時間、約500キロの所にある山、そしてInn。そこに訪れた仲間達が自然発生的にこの大阪で、この関西で「集い」をしている。今日、集まられた方も静岡から岡山の方が、わざわざというよりも来たいから来る。この不思議なものは何なのだろうか?と素敵に思う。 20名を超える人数、鈴木さんを中心に自然な気が流れて自然に時が流れていった。誰もみな功利的な面での繋がりはなく、シャスタという愛するものの共通点、接点を持った仲間たち。お互いが初対面だけれども安心感がある。それはファミリィーのような連帯感だ。私のこの地球における拠り所、パワーが戴ける場所といのが、山はシャスタ(詩野寿多)、海は備瀬崎(美世咲)である。今日、お愛した岡本さんという方のお話では、ムー大陸があった頃、その後に東はシャスタに西の端が沖縄あたりと仰って、僕の想いについてとても賛同して下さった。天使の話についてもいろいろとお話して下さった。子供たちはみんな天使だとも言って下さった。「多くの寿晴らしい詩がある野」「愛と平和が美しくこの世に咲く海」ここで私の魂を磨いて行きたいと願っている。 (2005年 4月 5日 [火曜日])
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書の嫁入り |
字遊に字を書かせて戴いているといろいろなことが起きる。この夢の書は大袈裟に言うと神懸り的作品だ。初めて沖縄の壷屋焼物博物館で展示する前日に、徹夜で書いていて深夜の3時ごろ、いよいよ大作に望もうと何筆目かに、墨を入れていた丼鉢が転がって真中の部分にこぼれた、その時のショックたるや何とも言いがたいものがあった。仕方がないので取り敢えず外で乾かしていて、翌日の昼に見直してみると作品になっていた? これは私の意志で書いたのではなく、書けた、書かせて戴いたというのが感想だ。この「夢」ちゃんは、先日、沖縄・神戸・東京への展示、お役目を果たしてお嫁入りした。神戸の私立中学のエントランスに飾られるそうだ。生徒さん親御さん、一人でも多くの人に見ていただくことのほうが、字そのものも歓ぶことだろう。見てくださった方に夢を与えるキッカケになれば、最高の幸せである。夢ちゃん、どうぞ、みんなに見てもらって可愛がってもらってね・・・。 (2005年 4月 4日 [月曜日])
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球心一如 |
実力が拮抗、伯仲していると正心力(精神力)の差が勝負を決める。神戸国際大附属対愛工大名電は6−8で勝負が決まった。 今日は甲子園球場に出かけた。元神戸国際の教師として、野球部の部長が同期の先生とあっては応援に行きたいものだ。一塁側ベンチの上の観客席から一挙手一投足を見つめた。序盤、1回の工房は1−1、2回に名電が2点を追加して5回までは名電にやや有利な流れ、5回神戸国際が4点を入れて5−3と逆転をした。一気に流れを呼び込んで勝ちムードを取り込んだかに見えた。5回終了後、ベンチのムードが一変した。勝ちモードというよりも明らかに「勝てる」という隙が見えた。甲子園は実力が変らない場合は、「勝」と思った瞬間、悪魔が忍び寄る。女神は諦めない正心に微笑む。力に差があれば、「勝」という思いは更にリラックスさせて力を発揮させるが、僅差の場合は油断と隙に乗じて形成が逆転されることが多々ある。 それまで苦心惨憺のピッチングを続けていた神戸のエース大西にゆとりの笑顔?スキの笑顔?が5回の裏のベンチにこぼれた。駒大にあわやノーヒット試合をしたエースは6回ピンチを招いて打たれた。同点までで防げた、プラス2点が致命的になったが、これは流れ、勢いがうんだ2点ともいえる。ベンチの上から、このまま行くと危ない、タイムを取らないとと思っているうちに、ワイルドピッチ、タイムリィーで逆転されてしまった。 人生僅差・勝負も僅差。その差は正心力で決まるケースも多い。自分でやっているとわからないが、観客としてみているとよくわかる。球心一如、何事も人間がやることだから、心は一如に繁栄する。名電の選手はイチロー選手から30本のバットを寄贈されたという。このお蔭でヒットが出ような気がするという。これは気のせいではなく、理に叶っている。神戸国際大附属はミッション系の学校だ。「我々には神がついている」と思えば、プラスアルファの力は発揮できたと思う。 兵庫・大阪で連続出場はなかなか難しい。甲子園の一勝よりも県大会優勝の方が難しいかもしれない。神戸国際の夏の健闘、出場を祈念する。 (2005年 4月 3日 [日曜日])
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水は答えを知っている |
先日、前野さんという方にお愛した時、私の字の感想を含めてこの本を薦めて下さった。そして「水が文字に反応する」と仰った。この本を読んでみると「ガラスのビンに水を入れ、ワープロで文字を打った紙をビンに貼って水に言葉を見せました。」その上で水を凍らせてその結晶を写真で撮ると、「ありがとう」という言葉を貼ったものは美しい結晶になり、「ばかやろう」という言葉を貼ったものは結晶にならず醜いものになっている。これらが写真で証明されている。言葉というもののパワーや水の持つ神秘的な力を説いている本なのだ。早速、購入して読み始め、私は嬉しくなってきた。確かに神秘の力を持つ水ではあるけれども、水でさえこのように文字、言葉に反応するのだから、ましてや魂を持った人間は、その心でもっともっと言葉に反応すると考えられるはずだ。遊書展をさせて頂いて、沢山の人に私の書を貰っていただいて、皆さんから「感じるものがある」と言っていて、正直なところ嬉しくはあったけれどもピンと来るものがなかったけれど、何か実感として受け止められる気がする。 この本は「愛と感謝」を力説して勧めている。私が愛と平和・感謝を最近一番よく書かせて戴いている事にも通じる。 ■良い言葉、美しい言葉、ポジティブな言葉、イメージのいい言葉を書かせて戴いて、元気・覇気・勇気の出る文字の表現をさせて戴こうと、心に強く念じた。そして、これが誰よりも自分の心に元気を与えるということは実感している。なんと有難いことであろう。感謝・歓謝・神謝である。 (2005年 4月 2日 [土曜日])
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忠恕(ちゅうじょ) |
論語と私の出愛は高校3年生の時に、佐藤君という友達から「この本を読めよ」というものだった。正直な所、一切何が書いてあったか覚えていなくて記憶にない。しかし、孔子の教え、孔子の精神は『忠恕』であるという一語だけが残った。30歳くらいまでは、色紙にもほとんどこの言葉を書いてきた。自分が忠恕、真心と思いやりがある人間かどうかは別にして、18歳の時からこの言葉が私の心に刻まれたことは確かである。以来、そう心がけたいと願って生きてきたことも事実である。 私が言葉に敏感になったのは、おそらく小学校4年生の時の恩師の影響だろう。「たけのこ」という更半紙に来る日も来る日も、毎日の日記を書き続けた。思えばこちらは自分の分だけだけれども、先生は50人の生徒に毎日、コメントを書いて下さった。その一語は明確に覚えてはいないが、今もなお、私の心の襞にしっかりと美化されて付着しているものと思う。それが潜在意識となって私を動かしているようにも思える。私にとって生きる力となる心の教育をして下さったのだろう。今の私がいるのは恩師、山岸義人先生のお蔭の賜物だと思う。 川端康成の小説の一節、龍之介の詩の一節、宝石のように煌く言葉たちが私の心の中でいつも光っている。それが40年、50年という積み重ねの中で、さらに磨かれて輝きを増して来ている様に感じる。物理的な財産は何もないけれど、言葉という宝物をたくさん、皆様から頂戴しているように思える。 (2005年 4月 1日 [金曜日])
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