十機(とき=時) |
「神のなさることは時に適って美しい」この言葉を眼にしたときに、「はっ」として、「ビビィ」と来るものを感じて、二,三日して、「天の計らいは機に会って素晴らしい=機会」と言う言葉をつくらせていただきました。「機」は禅語では、一瞬の時、時間のような意味があります。辞書的な意味では、すばやい心の働き。という意味があります。とにかく私はこの「機」と言う字が大好きで、「機積」という言葉もつくらせていただいたほどです。そして、[遊書]にしてボランテイア活動での遊書展で皆様に買っていただいています。好機(チャンス)・時機(ちょうどいい時)というように、いい言葉がたくさんあります。十機は、一般的には「人生3回チャンスあり」といわれるのですが、凡人の私たちにはなかなか3回のチャンスでは、ものにしにくいところがあるので、十機として、10回あると思って焦らず、好機を感じて、大事にして、その機ごとに進歩成長していけたらという思いで、10分前にパソコンの前に座る寸前に、この言葉、この字が閃いて書いてみました。人生、十機のチャンスがあると思えば、時々(トキドキ)落ち込んだとしても、機を待って、人生をドキドキとした気持ちで迎えられるのではないかと思っています。善を積めば、機を積めば奇蹟(機積)が起きるものだと思います。私はそう信じています。昨日今日明日の今を、この機を大切にして人生を積み重ねていこう! (2004年 1月 31日 [土曜日])
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中位に注意しよう。 |
人間にとって一番重要である「生死」。しかし、生まれる時も死ぬ時も自分の意志は反映されない。人生何年と自分で決めることはできない。昨年、ご縁があって、「念ずれば花ひらく」の言葉で有名な詩国(四国に在住)という詩誌を毎月出しておられる坂村真民先生のご講演を拝聴した。師は私とちょうど40年の年齢の差がある。だから、私はこの先生の年まで、自分も遊書展を続けることを夢にしている。師が95歳として、只今、私が55歳になる。人生半ば過ぎ。自分の人生において、今、自分はどの位置に立っているかと考える時、寿命90歳?の人が、30歳であったとしても、今、私は人生の真ん中、中位に立っていると考えて、真ん中の大事な中心にいるのだと考えて、生きることが望ましいのではないかと思う。そこに今を大事に生き抜こうとする意志が生じてくるように思う。私の人生はまだ何年ある。私の人生はもう何年しかない。どう考えるかは、自分の意志、注意のしどころだ。注意というのは、意を注ぐ、心の思いを集中することだ。過去の人生、未来の人生を大事にするならば、今が、中心。今が人生の中位に立っていると注意して生きることだと思う。 「注意に注意せよ」というのは、アメリカの心理学者シーベリーの言葉です。何に意(心)を注ぐかで人生は決まるだろう。 (2004年 1月 30日 [金曜日])
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創時屋さん(そうじやさん) |
「忙しい、忙しい」と言っていると、本当に何もできない。では、時間があって暇になれば創造的なことができるかというと、どうもそうではないらしい。随分、昔に「忙」という時は心が亡びると書くと教えられた。1日は24時間。これは万民みな平等に与えられている。しかし、人を見ていると一日に3、40時間ぐらいの価値をもっているような人もいれば、10時間生きているのだろうか?という人もいる。小さい頃から、お金の無駄遣いについては必ず教えられる。しかし、「時間の無駄遣い」についてはほとんど教えられることが少ない。1日24時間。これを創って増やすことは不可能だけれども、時間的価値として創ることは可能だと思う。「創時」=時間を創るという意識、感覚を持つこと、育てることだと思う。 「今日する事を明日まで延ばすな!」これは必ず教えられた言葉だ。これは今日すべきことを明日に延ばすなという訓えだ。私の好きなトルコの格言に『明日できることを、今日するな』というのがある。これは受け止め方で含蓄のある言葉だが、やはり「今」を大切にせよという訓えに他ならない。人生を愉しめという訓えであると思われる。10・20代の時間の価値と40・50代の時間の価値は違う。同じ1時間でも、人生の黄金期といえる10代の時間は50代の人間の3倍の価値は絶対にあると私は思う。一冊の本を1時間かけて読めば、将来的に3倍ぐらいの価値で有効に生かされるはず、創造的なものに繋がるはずだ。身の回りの整理整頓よりも、時間の整理整頓をして、創時の達人を目指そう。時間をお創時しよう。時は金なり。大夢意図学(たいむいずまねー・Time is Money)。創時の名人は豊かな人生を創っていけると私は思う。 (2004年 1月 29日 [木曜日])
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過去を加工(化幸)する。 |
過去の失敗・過去の後悔。どれもみな、善いも悪いも決して変えることはできない。積み重ねていかなければならない事実である。過去は変えられないが生かすことはできる。どう生かすかが問題だ。過去の辛かった経験・悲しかった出来事・苦しい体験。これらからうまく学べば、過去を幸に化えることができるはずだ。小さなこと・大きなこと、それぞれ様々に人は引きずって行く。しかし、時間・時空を越えて、それを美化して肥やしにしていく人がいる。事に対して「日にち薬」という、時間の経過によって忘れ去ることができる。忘れてはいけないこと・忘れなければならないことがある。このバランス・判断が難しいところであるが、日々、感謝に素直に生きる人はそれが巧いように思える。過去を[かっこ]よく,嘘で飾り立てる人がいる。確固(かっこ)たる今に対する信念がないから誤魔化そうとする。だから、今後にも生かすことがない。過去を美化・化幸(かこう)することとは本質的に違うのだ。加工=化幸=花光。過去を幸に化えていく、過去を花が光るように化えていけたら、昨日・今日・明日が生きてくると思う。過去も現在も未来も、一本の道が続くものとして大事にして生きたい。 (2004年 1月 28日 [水曜日])
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意志の未来完了 |
過去は変えられないけれど生かすことはできる。今、この一瞬を生かすことが大事であるという考え方は、古今東西伝えられてきた原則。しかし、これも未来に繋がる今を大事にせよという教えだと思う。「した」は過去形。「できた」は完了形。「したい」は未来の願望。「できる」は未来の意志。『している』は現在進行形か、あるいは未来完了。確実な未来完了にするには期限を設定すること。9月に車を買っている。30歳までに結婚している。明日までに本を読み終えている。心でそう思って口に出せば、意志が明確化されて行動に積極性が生まれて完了することに繋がる。これを日々に実践していけば、自分が強くなっていく。意志が強まる。もう、何度もそれをして失敗してきたという人は、悲しいかな過去を生かせない人、勿論、輝く未来など来ようはずがない。夢・自己実現と云わずとも、どんな小さな予定、目標であっても、意志の未来完了形で考えて取り組まないと計画通りに物事は運ばない。もし、それだうまくいったとしても、それは回りの作用でそうなっただけに、次はそのようにうまくいく確立はとても低い。そこには自分の意志が働かなかったからだ。 結果は善しとしても、自分自身にプラスのことが残らない。人は顕在意識と潜在意識とで動いている。意志の未来完了でものを考え実行していけば潜在意識のパワーが働く。言葉も「したいと思う」という曖昧な表現でなく、いつまでに「している」という言い方を心がけたい。素敵な未来が来る様に。 人生の道は未知だから面白い。でも、そこにいい意味で自分の意志が働けば楽しいものになってイル。 (2004年 1月 27日 [火曜日])
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今日生く(教育=きょういく) |
教育とは今日生く。今日を生きること。今日一日を懸命に生きて学び育つこと。教育には二面性があって、他者から教え育てられる受動的な面と自らを教え育つ能動的な面がある。この両方があって教育効果は大きい。「自育力」というか、ただ教えられているだけではなく,自ら育とうという意志、意欲がある人間とそうでない人の差はとても大きい。一流の人物は教える相手からも学ぶ、世の間違った教師たちは生徒に強制的に教え込み、何も学ぶことなどないと考えている。教の字の左側の部分の意味は、「ならう」という意味を持ち、棒でうってならわせることから「おしえる」意味にに使われている字です(漢字辞典より)。 教えるのではなく習わせることだ。人間としての「義」についてなどは、棒でうってでも習わせることが大事だ。学ぶという見地からすると教えるは受動、習うは能動、どちらがよく身につくかは明らかである。親子・先生生徒の関係で言えば、教え方がうまいというのは親・先生の側に主体があり、習わせ方がうまいというのは子供・生徒の側に主体がある。だから、教え込むのではなく、キャッチさせる、掴ませる、習わせることがうまくなければならない。 教育はもっともっと教育の重要性を認識した上で、家庭教育・学校教育・社会教育がなされなければならない。日常の今、OJT=オンザジョブトレーニング、今日生く中で習わせることが大事な教育だ。それが原点にあって、二次的に知育がくるのが順当だろう。今の教育は本末顛倒していて、習おう、習いたいという意志・意欲を無視、あるいは、それを育てずして教え込んでいるところに誤りがあると思う。師弟が共に学び共に育つ、共育・共生・共感が大事だ。 共育・共生・共感の今日生くをしていかないと、日本の未来が危ない。国家が滅亡するのは経済でも政治でもない。今日生くのない教育が国を滅びさせる? (2004年 1月 26日 [月曜日])
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有明日(アリアス) |
昨日はもう変えることのできない過去。明日は創造すべき未来。大切なのは今、この一瞬一瞬の現在。明日の来ない今日はないけれども、絶対に約束された明日も無い。悲観的に云うのではなく、今の大切さをとらえてそう考えるべきだ。苦しい時に明日に望みを託す想いは大切であろう。「明日があるさ!」と自分自身を勇気付けることは、元気が生まれる。しかし、逃げ道として、今日をないがしろにした明日は、永遠に無為な明日が続くであろう。今を大事にする人は、明日の今を生きることができる。凡人にとって戒めないといけないことは、マンネリの中の変化進化のない明日だ。生活にはリズムがある、人生には流れがある,人の想いには勢いがある。日々新鮮に生きればリズム・流れ・勢いが生まれるが、惰性の日々に素敵な明日は決して来ない。 常時有明日(ジョウジ・アリアス)。これは阪神タイガースの主砲の外国人選手の名前をもじったもの。今日一日を精一杯に生きた人には、常時、素敵な明日がある。明るく元気な人には、素敵な有明日の予感が訪れるはず。寝る前に感謝をして、朝の目覚めの時には、I CAN. I WILL=私はできる、私はやる。という言葉を唱えて素敵な今を生きて生(行)きたい。 (2004年 1月 25日 [日曜日])
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何来無差(なんくるないさ) |
美ら島(チュラジマ=沖縄)の人でない限りは、聞きなれない言葉ですが、元々はひらがなで表記する言葉なのですが、小生が大好きになって、漢字を当てはめさせていただいた言葉である。沖縄の方言、うちなーぐちといわれる言葉で、造詣の深い言葉だと思いますが、「何とかなるさぁ」という意味です。決して何もしないで、そういうのではなくて、尽力を尽くした上で、人為の及ばないことに対しては、天に委ねようという想いだと解釈しています。「幸が来ても,不幸が来ても、天から見れば差は無いさぁ」という、達観した思い、悟りのような気持ちなのではないかと思っています。ウチナンチュ(沖縄の人)のあの大らかさはこの辺にあるのだと思います。戦争・台風に象徴される天災人災に対して、受容できる心の大らかさは沖縄の一番の魅力だと思います。100回以上行ってそう感じました。沖縄でたくさんの人に出会って、家族以上のファミリイーの仲間の人に出会ってそれを学びました。小さな私が、この言葉に出会って、この漢字を当てさせていただいて、おおげさに云うと、生きることの覚悟?が出来て、チョット大らかに考えることが出来るようになって、人生が楽に、楽しくなってきています。人事を尽くして天命を待つ。 「何来無差(なんくるないさ)」そう思って、今日も一日がんばる元気をいただいています。 (2004年 1月 24日 [土曜日])
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美感(ミカン) |
感性・感覚を磨くということは、感じ方・考え方・生き方に大きな影響を与えるものだと思う。心配・心配り。この二語の語感についてチョット考えて見た。視覚的には「り」があるかどうか。しかし、意味はプラスとマイナスほどの違いがある。 ・心配=先行き不結果が起こりはしないかと心を悩ますこと。 ・心配り=相手の心情を十分に考慮したり予測されるいろいろな 事態に対し万全の対処をしたりすること。(新明解国語辞典) 心配性の人は日々、心配のトレーニングをしている。いつも心を自分の方に向けているからそのようになりやすい。心配りができる人は、いつも心を相手の方に向けている。だから、トレーニングが有効で、だんだんその心の配り方が洗練されてきて、更に目配り・気配り・心配りができるようになってくる。これもひとつの感覚的なものであり、感性によって、自分の心の在りようが変わってくるように思える。いつも心を自分の方に向けて、内向して狭まっていく感覚といつも心を相手である外の方に向けて、外交的にオープンに明るくできる感覚。これは人生を積み重ねていくと、幸、不幸の差が出るくらいに大きい。だから、感性・感覚をいつも磨いていたい。美感は美しいもの、美心に触れると磨かれるように思える。ミカンを食べる時、自分の美感を考えて見てはどうだろう。善いことは「意識」して心がけることだと思う。 (2004年 1月 23日 [金曜日])
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楽習(がくしゅう) |
『知之者不如好之者。好之者不如楽之者』=之を知る者は之を好む者に如かず。之を好むものは之を楽しむものに如かず。 これは私が論語の中で一番好きな言葉である。2500年も昔から孔子がこのように学び方・生き方・志事の仕方の真髄を述べておられる。物事をするにあたっての本質である。しかし、学校で論語を習っても、この節は習わない。会社に入って教えられるということも少ない。私にしても50年後で始めて、心琴に触れた言葉である。好きこそものの上手なれ。という言葉を遥かに超えて、叡智が語られている。この言葉を私は小学生に教えさせていただいている。若い人に勉強や仕事に努力をするよりも、そのこと自身を好きになり、楽しむことに努力をすることを奨める。 それそのものを好きになり、楽しむことができるようになると、もう努力と言う言葉を遣う対象にはならないからだ。好きなことは言われなくてする。楽しいことは止められてもしたがるものだ。楽習することが一番身に着く方法でもある。先人・偉人の教えは素直に学ぶ(マネぶ)。それが人生を楽しく豊かにする方法だと云える。その気・ヤル気・本気の段階でレベルアップするように、知る・好む・楽しむという術を学びたい。教えたい。 (2004年 1月 22日 [木曜日])
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積善展運(せきぜんてんうん) |
善い事を積めば運は進展する。この言葉はある方の講演をお聞きしている最中に、パッと閃いた言葉です。学習塾の塾長として、日々、子供たちに国語・英語の指導をさせて頂いており、私の場合は文章を私が音読させて頂いている。そのお陰で、たくさんの言葉、文章が自然にインプットされているのかどうか?人様のお話を聞かせていただいたり、本を読んだり、街中を歩いて活字を目にしたり、考え事をしたりしている時に、いろいろな言葉が閃めいてくる。漢字文化の面白さに魅了されて、俗にいう当て字を創って、いい意味で遊ばせていただいている。 この言葉は、二年前の5月生まれ、浜松で誕生した。遊書展でもよく書かせていただいて、何度も口にして、何度も書いていると、言葉の魔法の力が働くのかも知れないが、その言葉がだんだん生きてきて、本物になってくるような気がする。心の中で言葉が熟成されて来て,意識化されて来て、善い事を積んでいこうという想いが強化されて、行動にも繋がってくる。事実、私生活の中でも大きく運が進展してきている。「世のため人のため」と、大それた事を口にしていると、だんだんその気に成って来るものだ。私は言葉の魔法の力を信じる。だから、これからも「言葉」を大切にして生(行)きたいと強く思う。積善の基本は自利ではなく、他利が優先されるものだと思う。展運というのは、「宇宙の運び」、原理原則による運動なのかも知れない。 (2004年 1月 21日 [水曜日])
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本ト(本当)の出会い |
中学時代に読んだ川端康成の「伊豆の踊子」これが私の本トの出会い。文学との出会い。読書好きになったきっかけである。54歳の年の数ぐらいは読み返しているだろう。「私は、今、どんなに親切にされてもそれを素直に受け入れることができる。また、人にもそうすることができる」(このような内容が書いた部分)というのが小説の最後の節にある。それ以後、これが私の生き方、目標になった。付け加えて言うと、互いが親切をしている、されているというのを超えて、自然にそれができるようになる。これを理想にして今まで生きてきた。もし、この本に出会っていなかったら、僕の人間性は変わっていただろうと思う。国文科に進まなかっただろう。国語の先生にもなっていなかった思う。 本トの出会いには、タイミングがとても大切なようである。これは本に限らず、全ての出会いには時機・好機・機会が重要であるようだ。それ以後、何千冊の本を読んできたのであろうか。蔵書と読んだ本の数は合わないけれども、5000冊?ぐらいはありそうだ。年が明けて、今年というか今日、心琴に触れる作品に出会った。まだまだ了見の狭い私はこの本を皆さんに紹介するのももったいないとおもうぐらいに素晴らしい本だ。天の計らい、神の仕業と感じるぐらい、今の私の精神、心にぴったり合致した本だ。 「原因」と「結果」の法則。ジェームズ・アレン著・サンマーク出版・¥1200円。自己啓発書というよりも、それを遥かに超えた真実の書という感じがする。生き方の指針を明確に掴める本だと思う。1902年、100年も前に書かれた書物である。もっと若い時代にこの本に出会っておきたかったと強く思う。その反面、今だからこそ、今の私の心琴に触れたとも言える。私の読書には癖があって必ず、文章に線を引く。後から読み直すためもあるし、仕事柄、話材にさせていただくためでもあるが、ほとんど全部に線を引いているほどである。この本トの出会いによって、私の考え方、人生はまた、大きく変化成長するように確信する。ひしひしと伝わってくるように、心が喜んでいるのがとてもよく解かる。素晴らしい本に出会うと幸せに出会ったような気がする。人生90年として、一人の人間が実際に経験できることには限りがある。思考の範囲にも限界がある。しかし、本を通じると大きな世界が広がる。私は恋愛小説を読んだ数だけ、恋愛をしてきた。涙を流した数だけ優しくなれた?自己啓発書で学んでことが、自分の一部になったものもたくさんあるような気がする。読書体験も一つの実体験である。これからも美しい言葉と出会って生(行)きたい。本トの出愛を求めたい・・・。 (2004年 1月 20日 [火曜日])
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喜人(きじん) |
私の人生の中で大きな影響を与えた出会いは@人A言葉B茶道C本D旅である。価値観・考え方において大きな影響を受けたのは茶道だ。大学時代、一番時間を割いたのが茶道だ。青春を打ち込んだと言っても、決して過言ではない。[茶人とは喜人である] といのが、最近、ふっと思ったことである。どういうことかというと、お茶は主人と客人が点前を通して、持成し(もてなし)をする。孔子の精神である、忠恕(ちゅじょ)=真心と思いやりを一番大切にするのだが、35年間、ずーとそう考えてきたのだが、それでも何か物足りなさを覚えていた。茶道とは相手を楽しませ、喜ばせること。茶人は相手を喜ばせる名人である。これが私が到達した?茶道についての思いである。ゆえに、点前をする、しないに関わらず、相手、自分と関わる人を喜ばせることが上手な人は、日本人であれば、お茶を飲むので茶人。点前、稽古をしていても、相手に気を遣わせるような人は茶人に非ず。といのが我が持論。日常生活の中で相手を和ませ楽しませ喜ばせる名人。 それが茶人といえる。おそらく、茶祖・村田珠光が茶禅一昧(ちゃぜんいちまい)をした、茶道の極意はここにあるのだろうと思う。点前をする機会はほとんどない生活をしている、しかし、上達の秘訣は、生活の中にも求められる。だから、私は喜人としての名人を目指したい。それが私の茶道することである。 (2004年 1月 19日 [月曜日])
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言の葉磨き(ハミガキ)は心磨き |
「人はみな、思ったとおりの自分になることができる」 よく遣われる言葉です。私も何度も耳にしてきました。いい言葉だなぁと思い、そうだろうなぁと感じ、思いながらも半信半疑でした。でも、今は100%そう思えるようになりました。心のあり方次第です。心の中の「想い」のあり方を、「想い」を心の中でどう言語化するかがキイーになります。これは西洋でも東洋でも、少し表現は違いますが、昔から確実に伝えられてきています。それは宗教であり、哲学であり、理論でもあります。宗教というとみんなが敬遠します。哲学、理論というと難しいと、避けられます。どちらにしても、それは『言葉=言語』ということができます。だから、簡潔明瞭に言葉として表現することが難しく、伝えることも難しいのです。そして、受け止めるのことも、それ以上に難しいことです。自然に素直に受け止めることです。自分の価値観で受け止めずに、ありのまま・あるがままの自然(原理・原則・本質)を受容することです。これができないから、人はみな、思い悩むのです。自己啓発書・啓蒙書はたくさん著されています。あなたに会うものを一冊、「すぅー」とそのまま受け入れてみる。大きな変化がうまれて来るはずです。しかし、残念ながら、ほとんどの人は、書物を自分の頭で、自分の価値観で読んでしまうから難しいのです。一つの言葉にも、もう、あなたは既成の概念を持っています。その概念で言葉を把握します。そうではなく、真っ白な心で読んでみることをお奨めします。 言葉を磨こう、言葉遣いを学ぼう、心を磨こうと少し意識するだけでも随分と違ってきます。心は自分の想いを創る工場です。その想いは言葉を原料にしています。美しい言葉、正しい言語が原料としてなければ、良い「想い」も生産されません。 自然に、つい、「フッ」と悪いこと、否定的なこと、イヤなこと、マイナスなことを考えてします。これは決して、自然ではありません。あなたが今までに、そのように「フッ」とそう考えるトレーニングをしてきているだけのことなのです。意識化で習慣化してきたのです。どうぞ、意識して、正しい美しいよい言葉の練習をしていきましょう。 (2004年 1月 18日 [日曜日])
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栄華感(えいがかん) |
「母と観た忘れえぬ映画、『名もなく貧しく美しく』」 これは母情(ぼじょう)の中の一句ですが、小学生に上がるかどうかという年頃に、母に連れられて観た映画である。高峰秀子さんと小林桂樹さんの共演したもので、当時の映画としては名作の一つであったと思う。聾唖者(ろうあしゃ)の二人が助け合って生きる姿が、当時、まだ分別もつかない私、少年の眼にも美しく映った。心の襞に50年近く温められて来て、年末、ビデオ屋さんで再会した。50歳を目前にして、人生を考えて私なりに「お金を追い求めることを止めて」、もっと大事なもの、素晴らしいもの、求めるべきものがあるのではないかと、思っている時機に再会したことに、何か必然的な意味を感じる。50に至るまでの人生の途中にも、何度かこの言葉は繰り返して来た。 あるタレントのお昼のバラエティー番組のギャラが1本60分200万円という。五木寛之さんの知名度は全国民の2割程度、モーニング娘は10人に8人は知っているだろう。これが今の日本を象徴する、有名度とお金の価値観。私の考え方の世界では、これは可笑しいというよりも、間違っていると思う。そんな世の中で、お金持ちになりたい、有名になりたいと求めて死んでいくのは、これ以上にサビシクワビシイコトはない。彼らのことを決して否定はしないけれども、自分自身の生きる世界をしっかりと持ちたい。若い時代にはお金も有名度も、一つのモチベーションになる。かつての私自身もそうであったのだから。 奉志活動(西口流ボランテイア活動)の中で、人様のお役にたつことを心がける。小さな小さな喜びを見つけていく。そんな生き方が、自分には相応しいと思えるようになってきた。 名もなく=しかし、存在感はある、貧しく=私利私欲が貧しい、 美しく=美心でありたい。精一杯に生きて、美笑(ほほえ)んで死んで生ける人に・・・。1本の映画が私に生き方を学ばせてくれた。映画は心の栄華につながる。何本の映画を観ただろう。何冊の本を読んだだろう。これからどんな映画、どんな本に出会うことができるだろう。人生の道は未知だから面白い。 (2004年 1月 17日 [土曜日])
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日々新鮮 |
「日々是好日」茶室の掛け物、禅僧の言葉によく遣われる名句として、この言葉がある。日々、毎日が好い日で、それは考え方次第ということであろう。我々、凡人にとって最も戒めないといけないことは惰性、マンネリに陥った生活を送ることだ。1年365日、毎日、物理的に変化に富んだ生活などありえない。また、そうであるとしたら、逆にこちらがその緊張感に持ちこたえられない。多美(旅)先での日々は、毎日の明日が新鮮だ。あの新鮮さを、我々は大切にすべきであると思う。今日という日が二度と来ないように、本当は昨日・今日・明日、物理的には同じ事を繰り返しているようであっても、決して同じ日はなく、少なくとも心は、感性は微小であったとしても変化成長しているはずだから(そうあっていたいという願望)新鮮な日を迎えているはずなのだ。しかし、とりわけ都会生活の中での汚濁に、自然の山海川に触れることのない日々の中で、心の新鮮さを失いがちになり、感性が鈍くなってしまいがちになるのかもしれない。物理的には日々同じような事であったとしても、心だけは日々新鮮でありたい。それが人間として、1ミリでも成長する証しになるかもしれない。論語の言葉の中に「我、日に三度、反省する」というのがある。就寝前に入浴する機会を持つならば、体と一緒に美心になれるよう、今日一日の我を振り返って反省し、心も洗って見るのはどうだろう。新鮮な心で明日を迎えれば、見えてくるものが違ってくるような気がする。目の前の一輪の花が美しいかどうかは 物理的なものよりも、こちらの感じ方、こちらの心の美しさによることのほうが大きいような気がする。心鮮汲み(しんせんぐみ)=心鮮やかに物事を汲み取れる人になりたい。 (2004年 1月 16日 [金曜日])
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出愛は神様からのご褒美 |
5月の誕生日を迎えると55歳になる。振り返ってみて、もしあの時こうだったら、ああだったらと過去の仮説をすることはまったくない。しかし、あの時にこの人とお会いしていなかったら、お会いできていなかったら、私の今はなく、人生は大いに変わっていたであろうと思われる。小学校の3年生の時に出会った恩師。この恩師との出会いで私の内面で「人間革命」が起きて今日に至ったというのは間違いのないところであろう。その後、学校の先生には恵まれた、それぞれの先生に影響を受けて、今、塾長を務めている。大学時代に出会った茶道の家元、初めて生身で「尊敬」というのを感じさせて下さった方だ。薫陶を受けさせていただいた。それぞれの時代、それぞれの場面で、本当に良い人に出会ってきた。『三師・三友・三相』は私の持論だ。三人の師匠、三人の心の友、三人の相手(ライバル)。この出愛によって人生は決まる。人は人の間(あいだ)で、その間での出愛で学び、育てられ、変化成長していく。高い知識を修めても、物理的に素晴らしいものを得たとしても環境が好転しても、財産を得ても、それだけでは人間の本質は変わることがなく、考え方も価値観も人生観も表面的な部分しか変わらない。しかし、本当の人様からの出会いからは、自分という人間が影響を受け、多いに変化成長したと思う。私の人生を変えた出愛は人様との出会い、そして、言葉・茶道・書物・多美(旅)・映画だと思う。今、また、新しく「遊書」なるものと出会って、人生が開け、人生が楽しくなり、そこからまた、新しい万物との「出愛」が広がっている。 「出愛に感謝」。明日、また、新しい何かと出会えるかもしれない。出会いに感応する心をいつも澄ましておきたい・・・。 (2004年 1月 15日 [木曜日])
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宇宙は私、私は宇宙。 |
禅の世界では、人間そのものを小宇宙としてとらえる考え方がある。地球が宇宙の一つの星であるならば、その存在は微小なものである。一個の人間も地球の存在からすれば更に微小である。無に等しい存在であるかもしれない。しかし、その人間には魂があり、心がある。もし、この宇宙よりも大きな存在があるとしたら、それは人の心、美心(びじん)であると私は信じている。信じたいという願望の方が強いかもしれない。 卑小な人間は時として、自己中心で利己的である。自分のことは大事にするが、他に対してはそう考えられない人が多い。だから私は万民が皆、「私は宇宙であり、宇宙は私である」と考えたならば、存在するものの全てを大事にするのではないだろうかという、卑小な私の飛躍した論法である。地球に優しくという言葉が遣われ、地球全体の環境には多くの人の視点がいくようになったけれども、未だ、宇宙規模で物を観る視点には及んでいない。宇宙規模で物事がとらえられ、宇宙規模で物を観ることができたらどんなに素晴らしいことだろう。惑星の一つである地球の住民の一人として、そう考えることができたらと思うと、私に美心は惑惑(ワクワク)してくる。世界は一つ、と叫ぶまでもなく、間違いなく宇宙は一つなのだ。宇宙と私が同化したら、その存在は『無』となる。無となれば自他もなくなる。グローバルマインドを超越して、ユニバースマインドになれたら、それが人類の至福だと私は考える。私は宇宙に包容されて、宇宙のように大きな母なる大地・母なる海の愛に抱擁されて生きていきたい・・・。 (2004年 1月 14日 [水曜日])
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和我真間(わがまま) |
利己的な「わがまま」は人様に迷惑をかける。今の子供たちの無軌道なわがままも困る。そうでわなく、自分を磨いた上での、我が意のままにという、自分の意志を大切にすると言う、「我がまま」「在るがまま」は大切なことである。和我真間=我と他者との間を真の和で保つ。というのは人間関係の基本、万物と我との関わりにおける秘訣であるように思える。『以和為貴』和を以って貴しと為す。という聖徳太子の言葉は、日本人が最も尊ぶべき精神である。他者と自分の間に和を置かないから、お互いがギクシャクして、お互いが「わがまま」を張り合う。避けるべきこと、恥ずべきことである。 大和・平和・和気・和同・和合・和敬・和楽・和暢。このように和を遣う文字には素晴らしい言葉がたくさんある。人と人との間に和が介在する。そうすればお互いの心が和み楽しく、うれしくなるものだ。万物との間にも「和」をおく。これは大袈裟に言えば、宇宙の真理にかなうことであり、今、最も必要とされていることであるように思う。今、この地球上で起きている大部分の問題は人事だけでなく、人間と自然・人間と動物・人間と万物においても解決されるはずだ。和我真間この語源は本来は、もしかしたらいい意味で使われていたのではないだろうか? 私という字は和に似ている。我が意のまま。和我真間を私は大切にしていきたい。 (2004年 1月 13日 [火曜日])
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大夢意図学(タイムイズマネー) |
学ぶ(まねぶ)。古典の枕草子、徒然草の中では学ぶはまねぶと言っていました。だから、大夢意図学はTime is moneyと無理やりに語呂合わせして読みます。学問、学ぶことの意図は大きな夢を達成するためであると言うこと。そして、大夢、時は金なりと言うことで大切にしなければならないということだと思います。 お金の無駄遣いについては心がけている人も多いし、親からも躾けられ、周りからも注意されるけれども、時間の無駄遣いについては多くの人が無為にしすぎているようだ。水・空気・光・時間など当たり前に与えられていて、有難味をつい忘れてしまう。 時間を浪費して齷齪(あくせく)と働いて金を得て浪費する。これほど嘆かわしいことはない。成功者の第一条件は「時間の達人」かもしれない。時間の感覚・価値観が違う。時間に正確である。例えば、遅刻をすることは相手の時間を泥棒するのと同じだ。しかし、そのような感覚を持っている人は少ない。そのようなルーズさではおそらく夢も達成されないであろう。時間・夢・学習、どれも重要に大切にしたいものである。 (2004年 1月 12日 [月曜日])
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機積(きせき) |
この世に起こることに偶然はない。起こるべきして起きており必然性があるといわれている。その真意についてはまだよく解からない。しかし、奇蹟は起きないと思う。一瞬一瞬、一秒一秒の積み重ねによって奇蹟が起きるのであろう。その積み重ねに人為を越えた、ある働きかけを人は奇蹟と呼ぶのではないだろうか。ゆえに機積は起きない。機積は積み重ねによって起こすものであるように思う。これは決して人間の傲慢さで言うのではなく、むしろ、神頼み的に奇蹟が起きて欲しいと、何もせずに願うことに対して戒めて言うのである。日々の精進、今を大切にする行為・言動・思考、それらの積み重ねによって、あらゆるものの働きかけ、あらゆる人の想いの結合、天の計らいも総合的に作用して機積が起きるのではないだろうか。これはそうあって欲しいという単純な小生の切なる思いなのかもしれない。だから、人生においてそうやすやすと機積が起きてもらうと困る。チャンスは3度あるというぐらいだから、3回ぐらいは機積が起きて欲しい。それもその人の生き方による、機の積み方次第であろう。もう一つは少し考え方、視点を変えれば、人間が無事に生きている、生かされている、これそのものが機積だともいえる。毎日の生活の中で、日々機積が起きている。しかし、それに気づいていないだけなのかも知れない。ある師の言葉に、「食べたものが翌日には、あるものは血となり肉と成り、あるものは排泄物となっていく、これは意識下のものでなく、一つの偉大な営みである」と教えて下さった。正にその通りである。当たり前のこととして、我々、人間はそのことに感謝することを忘れている。これも見方によれば、小さな機積といえるものではないだろうか。欲の絡んだ欲につながる奇蹟なんて起きない方がいいに決まっているのだ。 真摯に生きて、生かされて地道に真面目に「機」を積んでいく、感謝することを決して忘れることなく・・・。生きていくという営みが『機積』なのかも知れない。 (2004年 1月 11日 [日曜日])
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道楽 |
遊び・道楽というと、残念ながら日本語ではあまりいい意味で使われていない。しかし、文字を見てみると、「道を楽しむ」と書いて道楽という。新明解国語辞典(三省堂)を借りると=余暇を利用し、人生を豊かにするための趣味的な仕事に打ち込むこと。と書かれており、知的道楽という言葉もある。 今の日本人の思考基盤、行動原理、価値基準など、どう見てもお金、お金で動いているように思えてならない。これは、小生の価値観でいうと、恥ずべきことだ。わが国は6,70年代から見ればはるかに豊かになり、余暇も充分に楽しめる時代になってた。しかし、人生を楽しむ人、時間を愉しむ人となると、なんと少ないことであろう。その昔、いにしえ人は万葉集を詠んで自己表現をしてきた。比べる対象が飛躍しすぎているかも知れないが、現代人は、ブランド品や高級外車で自己表現をしていると思われる人があまた見られるようだが、実に寂しいかぎりである。小生も50になって字遊道楽を始めた。道を求め道を楽しめる人になれるように・・・。私は知的道楽者になりたい。 (2004年 1月 10日 [土曜日])
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夢人(ゆーめーじん) |
体験的実践論で夢実現の秘訣を書いてみます。その@心に描くこと。そのA言語化して人に語ること。そのB文字にしていつも確認すること。2年前の正月、メモ帳に「遊書展」をすると書きました。この時、何の経験も具体性も実現性もありませんでした。あったのは、「したいなぁ」「出来たらいいのになぁ」という想いだけでした。アメリカにいる息子と友達に年賀状に添えて伝えました。1ヶ月以内に話がまとまりました。4月に実現して、デビュー(出美遊)しました。これがアメリカデビューの由縁です。 自分の意志、力ではなく、皆様のお陰、天地人がお手伝いして下さったお陰です。人間一人の力でできることは微々たる物、小さな事です。でも、皆様のお力を借りると信じられないことが実現します。あれよあれよという間に1年半で11回の遊書展。今や、道楽になってしまいました。いい意味の道楽で、人生の道を楽しむということで、これを通じて自分を磨いていきたいと思っています。夢を実現する夢人を目指して、今日も一日、一緒懸命に頑張って生きて行きたい。そう念じています。 (2004年 1月 9日 [金曜日])
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努力? |
努力という言葉はあまり好きではない。こんなことをいうと多いに顰蹙(ひんしゅく)を買いそうだが、この言葉はあまりにも軽く遣われすぎているように思える。何か問題が起きると、直ぐに努力すれば解決できると捉えるのは間違いではないだろうか。努力することの難しさを理解すると、そう簡単には使える言葉ではないと思う。古今東西の偉人・賢人・成功者で努力を自慢した人はいないように思える。果たして人間好きなことをするのに努力は必要なのであろうか。教師歴30年の小生にとって、教えるということに苦心惨憺、工夫はしてきたけれど、決して努力だとは思ったことはない。好きなことを継続してやり遂げるには、努力ではなくプラスアルファの力が働くものだと思う。好きでない事、辛いこと、やらねばならないことをするとき、確かに努力は必要だ。私は努力することの難しさをしっかりと自覚して、他者・子供たちに努力の手助けはしても、それを強いることや、その言葉を励ましにはしない。むやみに努力するのではなく、好きになること・楽しむことに対して「努力」をしたいと思う。 (2004年 1月 8日 [木曜日])
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一緒懸命(いっしょけんめい) |
5月の誕生日が来ると55歳。語呂合わせで「ゴーゴー」と頑張ろうと新年の抱負を持っています。省みるに55年間、残念ながら、自分の一生を懸けて、一生懸命に何かをしたことはありません。人間、そう簡単には命を懸けることは難しいものです。心燃ということで、心を燃やして取り組んだことはあります。目下、回を重ねている「遊書展」はその一つです。「芸術は死に物狂いの産物である」という言葉を借りたとしても、まだまだ、その域には到底及びません。でも、「心燃」を続けていけばきっと一生懸命にできるように成ると思っています。人生は何事も練習だとつくづく思います。そんな私でも、一生懸命は無理でも、一緒懸命はできています。愛する人と、仲間の人と、志を同じくする人と一緒になって頑張っています。遊書展を通じて出会った仲間はファミリーのように一緒になって、懸命に取り組んでいます。これが何よりの、今、財産になっていることです。これがあるから一緒懸命に取り組み、心を燃やしています。「書」というには恥ずかしいものかも知れません。文字通り、字遊な文字ですが、いつも、皆さんのことを思って一緒懸命に書かせていただいています。感謝の心を持って・・・。 (2004年 1月 7日 [水曜日])
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美心(びじん) |
美人は女性の代名詞になっているが、美き人と書けば(よきひと)と読むことができる。美心(びじん)は老若男女を問わず、心美しき人のことをいう。字遊人として今、凝って書いているのがこの文字である。21世紀型の美人は「心の美しい人」と自分勝手に定義している。真善美。真は科学・学問の追及するもの。善は人間が行いとして追求するもの。美は芸術が追求するもの。 そのような考えからいくと、美しい芸術に触れ、美しい言葉を遣い、美しい自然を愛する。そのような心がけ、生き方が美心になる一つの方法であるように思える。人間にとって大切なことは、志を持って、心がけて習慣化して生きていくことだと思う。 平和を愛する、正義を愛する、地球を愛する、他を愛する、自分を愛することが美心につながることだと思う。女性が顔に化粧をするのではなく、心に化粧をすれば、みんな美しい人になるように思う。鏡に向かう時間、自分の心を日々見つめる。入浴時に体と一緒に心も洗う。そう意識することが大切だと思う。私はナイスフィティ(五十代)の美心を目指したい。 (2004年 1月 6日 [火曜日])
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本物 |
年に1度、年賀状で互いの近況を知らせあう旧知の友も、また良しである。元旦の朝、賀状を見るのは愉しみの一つだ。しかし、かく言う私はというと、元旦の朝に新年の抱負を書いて送ることを20年余続けている。心友の一人は360通の賀状を直筆、筆書きで毎年の干支を見事な芸術作品にして送ってきてくださる。頭が下がるというか、これは流石の私も学(マネ)ができない。 私の場合は200通の賀状をお出しするのに、やっとの思いである。封書にして工夫をして、少しでもこちらの思いをお伝えできるようにしているが、まだまだ、甘いように思える。 自分の人生の生き方には「こだわらない・とらわれない・縛られない」という姿勢が大切なことであるが、自分のすることに関しては、いい意味での「こだわり」を持ちたいものである。新年にあたって、本物志向・一流を目指すという心の構えは持っていたものである。ニセモノが多い中、本物は自分が本物にならないと判らないと思う。志向だけはいつも持っていたいものだ。 (2004年 1月 5日 [月曜日])
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ファミリィー |
家族という言葉は、本当に限定されて親兄弟ということになるかもしれないが、英語でファミリイーというともっと広いニュアンスがあるような気がする。現に私には家族以上の家族といえる、ファミリイーがたくさんいる。これは私の人生において財産であり、宝物である。ある部分では本当の家族以上のものである。私が勝手にそう思っているのではなく、自然にそういう「気」がファミリイーに生まれてきたものである。「この世は心と心の出会いの場」である。契りとか、絆とかそんな言葉では表現できない素晴らしいマインドのシェア、お互いにいつも離れていても思いやれるつながり、それは「連愛」といえるものかも知れない。 大好きな人、かけがえのない人、愛すべき人が、この地上に一人でも二人でも多いにこしたことはない。その存在は心根にどっしりとしたものとして実在する。想いが同じ、感性が同じ、決して同一ではないが共通項としての項が重複するという歓びは無上のものである。その人の数だけ、心の中に青い鳥がいるように思える。あなたと私、いつも一緒。私はそのような世界で生きている。 (2004年 1月 4日 [日曜日])
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優情 |
今日はY氏と会う。友情を深めた友というよりも私にとってとても大事な人だ。私にとっても家族にとっても恩人でもある。本人自身はいい意味でまったくそのようには思っておられない。そこがまたY氏の人間性の素晴らしさなのだろう。威張る人、偉そうにする人が多い中で本当に「ほっ」とする人だ。明日は朋在り、遠方より来る、また喜ばしからずや、だ。福岡から、沖縄から来る。それもわざわざ私の「遊書展」を見に来てくれるのだ。Mさんはアメリカでデビューした時からのサポーター。Tさんは沖縄でデビューした時からのサポーター。ボランテイア活動の中で、優情を深め合った仲間。寧ろ、血を越えたファミリー以上といえる。この優情という言葉も、一緒懸命という言葉もボランテイア活動で出会ったファミリーとの出愛で生まれたものである。「出愛は神様からのご褒美」だが、本当にここ数年は出愛によって、人生観・幸福観すら大きく変わってきたように思える。優情は深め合うことによって、なお、優しさが増すように思える。 (2004年 1月 3日 [土曜日])
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初夢 |
一富士二鷹三茄子。どんな夢を見ましょうか?どうせ見るなら大きな夢を見たい。「遊書展5大陸制覇」「遊書展100回」これは今年だけの夢ではなく、これからの人生において見続けていきたいものとしてあげている。夢を実現する秘訣は、@心に描くことA文字に書くことB口に出して人に語ること。そう思っています。夢にもよるのでしょうが、自分の力だけでできるものは限られています。多くの人のお力をお借りしないとできないのが夢なのかも知れない。だから、自分のためだけの夢ではなく、世のため人のために少しはお役に立てるものでなくてはならない。そうすれば、人様のお力を借りることができて、一緒懸命になれるような気がする。二年前に、遊書展をしたいと手帳に書いてみて、2年の間に12回。これはほとんど人様のお陰、お力を借りてというほかないように思う。この間に出会った人たちの「愛・因・運・縁・恩」は私の大きな夢力になった。人様の夢力にもなり、人様から夢力をいただく、なんと素晴らしいことだろう。 (2004年 1月 2日 [金曜日])
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連愛 |
■連愛■あなたのとなりの人に一人だけ、愛を語ろう、平和を語ろう、そうすればみんながつながりあえる。今年のキイワード。 連愛・美心(びじん)・一緒懸命。みんなが一緒に美しい心でつながりあえたら・・・。地球は一つで全てのものであるべき、決して人類だけのものではない。平和を想っている人、平和を願っている人、平和を祈っている人。果たして何人要るのだろうか。本当の祈りには行動が伴う。確かに大きな声で叫ぶことも大切だろう。でも、先ず、私は自分ができることから始めたい。そこからの一歩がつながっていくことを信じていきたい。遊書展を通じたボランテイアの活動も今年で3年目、つながりあって、お互いに助け合って、小さな小さな行動を続けていく。世界を変えることはできなくても、身近な回りは変えていくことができる。一人が二人、二人が三人に。2004年、21世紀も4年目、変わっていかなければ、変えていかなければ、その心だけは大切にして世のため人のため、生きていきたい。元旦。 (2004年 1月 1日 [木曜日])
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