2004年05月の日志

論語の夢
子曰、学而時習之、不亦説乎。
有朋自遠方来、不亦楽乎。
人不知而不怒、不亦君子乎。
「子曰く、学びて時にこれを習う。またよろこばしからずや。朋あり遠方より来る。また楽しからずや。人知らずしてしかもいからず、また君子ならずや」
 沖縄の熊さんが突然に台風のように来た。東京から舞鶴に行く途中に素通りしたら怒られると声をかけてくださった。甲子園のホテルに一緒に泊まって夜中3時半までしゃべった。思えば二人きりで語り明かしたことはなく、いい機会が持つことができた。朋あり、遠方より来る。本当に楽しい機会だった。授業の間、教室で待機していただいて、10時から神戸に出かけた。包包(パオパオ)という餃子専門店で、此処の名物、タコ餃子を食べた。えび・キムチ・ニラ餃子をしっかりと食べた。熊さんは一流の料理人、神戸肉はこんな時間では無理で、熊さんに魚を食べさせられないし、ということで餃子にした。歓んでもらえてよかった。
ノボテル甲子園ホテル(旧都ホテル)では知り合いの田畑さんが最上階15階の球場が一番よく見える部屋を取ってくださった。
 論語の話に戻ると、第一節は1・2文が有名だが、3文目の「人がわかってくれなくても気にしない」という文こそ、私たちが一番見習うべきところだと思う。自分は人のことをよく理解しないのに、人が自分の事を理解してくれないと、時には責め、怒り、罵り、泣き、寂しがったりするものだ。それらを「気にしない」という態度は立派である。これこそ孔子の精神。自然体のさり気ない「忠恕=まごころとおもいやり」だと思う。いつもこうありたい。そう思うわたしの論語(孔子)の夢である。
(2004年 5月 31日 [月曜日])

漢詩の夢
三五七言(さんごしちげん)
春風澄
月光明
鳴沙山二人
悠久的時流
相思相見知何日
此時此夜難為情
■春風澄み
 月光明らか
 鳴沙山に二人
 悠久の時が流れる
 相思い相見る 知る何れの日ぞ
 此の時此の夜 情を為し難し
李白の漢詩を真似て作りました。何でも挑戦してみたらやれるものだ。勿論、初めて作った漢詩です。漢詩で夢を詠む。それも一興かと?思います。
2004年 5月 30日 [日曜日]

アナログ・デジタルの夢
アナログ=数量を連続した物理量で示す方式のこと。デジタル=数量を1,2,3などと、数値で表す方式。何かよくわからない?しかし、ある分野において、特に通信など音声信号化することによって便利になったことは間違いがない。ある面において飛躍的に変化進化したことも確かだ。何でも物理的な変化が起きた時、人間のその対応力が問題になってくる。物理的対応力は十分に人間は持っているようだ。しかし、それに伴う精神性というか心の対応力が、どうやら進化についていっていないような気がしてならない。かつてといっても10年サイクルぐらいでみても考えられない犯罪が激増している。ここにも心とデジタルとアナログの相関関係、バランスに問題があるように思える。今日はめている時計はアナログ・デジタル兼用の電波時計。たまたま今日の気分に合わせてして来たのだが、ここのところのバランスが大切なような気がする。
文明=農耕・牧畜によって生産したものを主な食料とし、種種の専門職に従事する人々が集まって形成する都市を中心に整然と組織された社会の状態。文化=その人間集団の構成員に共通の価値観を繁栄した、物心両面にわたる活動の様式。また、それによって創りだされたもの.(学問・芸術・宗教・教育・出版など)
文明の発達に伴って文化が形成されてきた。現代社会は経済が基盤でお金の流通が基になり過ぎている嫌いがある。そのために価値観が多様化し過ぎて、一定の文化と言うものが喪失され、言葉が乱れてきて、経済の先行き不安よりも、日本の未来の方がもっと心配だ。やっぱり、「教育」かなあと思う。日本人としての教育の夢。文化の夢が必要だ。自由、自由の名の下に、いい意味での「一定」がないというのは、考えていかなければならないと思う。
2004年 5月 29日 [土曜日]

ユックリズムの夢
東進衛星予備校の全国大会、その表彰式が東京の帝国ホテルであって、日帰りで行ってきた。新幹線で往復をしてきた。飛行機が早いのは確かであるが、新幹線はゆっくりと居眠りできるのがいい。行きは目覚めたら熱海で、帰りは名古屋の手前だった。この前の中国敦煌への旅では26時間乗っても、そう疲れなかったが、仕事だと何故か疲れる。それはやはり気持ちのありようが違うのだろう。レクレーションモードとビジネスモードが潜在意識の中で働いてしまうのかも知れない。
 私の父は70才まで働いて、決して「しんどい」ということをいわなかった人だ。明治の気骨というか、いい意味で頑固一徹だった。だから私とて日帰りの出張でそんなことは不通なら言わないのだが、短時間の長距離移動は、人体そのものが自然にはついていかないのかも知れない。もともとは旅好き、乗り物好きだが、気持ちではなく体が移動空間に馴染めなかった。「ノンビリズム」というか、ゆっくりとした時間の流れの中で、ゆっくりとした夢を見たいような気もする。
(2004年 5月 28日 [金曜日])

待我寿(タイガース)の夢
 繁心待我寿=阪神タイガース。心を繁らせて我が寿を待つ。
去年の阪神の優勝で甲子園球場が連日満員で、当日券がなくなり地元にいても簡単に見に行けなくなった。今日、大好きな友人から電話が入って。7月1日の阪神巨人戦の試合が見に行けるようになった。それも授業が無い日なので好都合だ。甲子園は10人目の選手がいるといわれるぐらい、独特の雰囲気と熱気があって観戦していても面白い。福岡ドーム、昨年の日本シリーズを見に行ったが、福岡も負けず劣らず凄いが、やはり甲子園は浪花の熱がある。今の所、阪神は首位。去年とは違って総合的に強さと勢いが違うが、中日・巨人ももたついているためにダンゴレースが続いている。阪神が強いと関西には経済効果がもたらされるので、もう2年ぐらいは続いて欲しい。去年1年では、今ひとつ景気回復とまでは行かなかった感がある。夢よ、再びを願いい。
’85年以来、20世紀中には優勝しないといわれその通りになったのだから、この調子を維持して欲しい。どのチームも決め手にかけるのでその点は面白いが、何処かが6,7月に連勝すると抜け出すかも知れない。野球ファンの夢を膨らませて欲しい。今年はセパとも活気にかけているような気がする。星野監督の存在が大きかったように思う。
(2004年 5月 27日 [木曜日])

進化する夢
 日米野球で2000本安打を達成したイチローは兎に角凄い。地元ビイキでセは阪神、パは西武。これはライオンズの前身、西鉄ライオンズが私の出身、福岡のチームだったから45年来のご贔屓ということになるが、オリックスにいた頃、よくイチローに泣かされて西武が負けたこともあったが、今のような「凄み」はなかった。アメリカに渡って更に進化するのだから凄い。昨夜のインタビューでは、達成したときよりも、達成する前のワクワク感の方が愉しいと言っていた。達成したら終わり。次の瞬間、次の目標が始まる。この時に「気を緩めないこと」が大切といっていた。
 『何でもいいから目標を持つこと それを持つことによって人の話をきちん聞いたり 自分を大切にすることができる』
 この言葉は200本安打を達成した時のもの。記録を残す度に彼は名言を遺す。イチローは野球技術だけではなく、精神も間違いなく進化していっているといえる。
 『2割8分の打者が100lの力を出して2割8分を打つのと、3割打者が70lの力で3割を打つのとでは、私は100lの力を出した人の方が素晴らしいと思う』イチローはまだ100lの力を出し切っていないのだろう。野球ファンに夢を与えることも素晴らしい。イチローの夢は進化して行く。
(2004年 5月 26日 [水曜日])

夢を持てない子供たち。
☆本当の貧しさとは
ハイチの売春している人の72パーセントは、
HIVに感染している、と聞いたので、
12歳の売春している女の子に質問した。
「エイズ、怖くないの?」
まだ、あどけない少女は答えた。
「怖いけど、エイズになっても何年かは、
生きていかれるでしょう?
私の家族は、明日、食べるものが、ないんですもの」
一回の売春は6グルード。
日本のお金にして四十二円。
この四十二円で、少女の家は、
何とか明日は飢えないで、
生きていかれる。
■この文章は『トットちゃんとトットちゃんたち』という黒柳哲子さんの本の一節。中3SEのクラスで、授業の最初に黙想をして始める前に、黙想の状態で私が生徒たちに読んで聞いてもらった。勿論、一連の話の中でのことだが、彼らに伝えたかったことは私たち日本人がどんなに恵まれた中で生活をしているかということを知ってもらいたいと思ったからだ。女の子はショックを受けたようだ。そう、本を読んでいろいろなことを知って、学んで、時にはショックを受けて欲しいのだ。それも大切な勉強だと私は思っている。この地球には夢を語れない、持つことさえ叶わぬ子供たちもたくさんいることを知っておきたいのだ。
(2004年 5月 25日 [火曜日])

五月の空・風・夢
ゴールデンウイーク中の夢求日志お休みのために、ご迷惑をおかけしました。日付どおりに復帰しましたので今後共よろしくお願いします。
 五月の空に何を語ろう
 五月の空に何を描こう
 初夏、若夏に想いは弾む
 汗ばむ暑さに若さが弾ける
 
 五月の風に夢を
 五月の風に愛を

 何を想い何を意識するか
 吸い込まれそうな青に心を溶かし
 爽やかな緑に想いを溶かす
 一点の曇りなき空のように
 我が心にも曇りがなければ

 想いは必ず叶う
 五月の空と
 五月の風は
 そう想わせてくれる
(2004年 5月 24日 [月曜日])

骨董屋さんの夢
今日は亡き母の誕生日、いつもお彼岸の時には無礼をしているので、一人墓参りに出かけた。そして、ちょっと足を伸ばして大山崎の美術館へ久しぶりに行った。ここにあるバーナードリーチの焼物が好きで、モネの睡蓮があるのでフッと行きたくなる。もう一つ目的があった。骨董の額を買うためだった。美術館へ行く途中の道に「屋根裏」という骨董屋さんがあって、数年前に買ったことがあって、きっと同じようにあるだろうと思って行った。時間があったので店のご主人とお話をさせて頂いて、古い額を10枚購入した。「どうぞ、ご自分でお値段をつけて下さい」という言葉に、以前は1枚300円ぐらいで購入したのだが、そういわれると、こちらもケチなことが言えず、それではと言うことで5000円にして貰った。2枚ほどオマケをしていただいて、12,3枚はあるだろう。今どき、こんな商売をしてくださる方がいると思うとうれしくなってくる。この額は6月の壷屋焼物博物館の作品として、遊書展の作品として、誰かの手に渡る。この店の主人の心と私の書の心もついて、何処かの場所に飾られる。そう思うと何故かうれしくなってくる。「こんな古い額が、誰かに喜んで貰えるのはうれしいことですよ」。そう仰った主人の笑顔が美しかった。
2004年 5月 23日 [日曜日]

 小瓶の夢
 敦煌の大砂山、鳴沙山の砂を沖縄の星の砂が入っていたものと詰め替えて友に送った。お金の価値には変えられないけれど、敦煌の空港で厳重に検査されて、どうやら「薬物」と間違えられたようだ。少量を机の上に広げてライターで火をつけられた。天使が横にいなかったら、中国語で、勿論、英語でも弁明できなかっただろうから、没収されたかも知れない代物だ。お蔭さまで、他の空港ではノーチェックだったので助かった。☆砂の小瓶はわざわざ沖縄から、ようこさん(僕の遊書、ボランテイア活動の支援者)に頼んで取り寄せて貰った。「天使の愛と賢治の心と夢」を詰めて送らせていただいた。見た目には沖縄の砂浜の砂とそんなには変わらないかも知れない。あえて言えば「サラッ」とした感じが違うように思われる。何千年もの間、雨にしか打たれたことのない砂と、いつも海水を浴びている違いはあるだろう。僕はこの砂と沖縄備瀬崎の砂を混ぜて旅の記念に残しておこうと思っている。砂漠の砂と美ら島の砂の和合に、何か勝手にロマンを見出している。
2004年 5月 22日 [土曜日]

代々の夢
 教え子が地元で美容院を経営している。たまたま映画館で出会って、以来、ジュニアを二人預かっていることもあって、付き合いを復活?している。昔、先生と生徒であっても今は、対等の社会人同士、なかなかいい感じで親交を深めさせていただいている。私の小品を美容院に届けた所、たまたまそこにいたお客さんが気に入ってくださり、お上げしたところ、お返しを届けて下さっていると言う事で、明日にでも会う予定にしている。人と人の輪が和に繋がって広がっていくことはとてもうれしいことだ。前にも書いたことかも知れないが、60億の人が朝の電車の満員状態のようになれば琵琶湖に収まる範囲というから、ほんとに連愛をして繋がりあえば一つになることは可能だと思う。世界的な大人物、大教育家の出現を待望しているのは、決して私だけではないだろう。千年の世紀を2回越したのだから、そろそろ出現してもいいような気がする。どうやら、昔と違って主義よりも「経済」「金」がその邪魔をしているような気がしてならない。我々は次代の子供達に何を残すことができるのだろう。代々のゆずり葉、代々の夢をもっと大切にしたい。
(2004年 5月 21日 [金曜日])

永遠の夢・・・。
 自社ビル購入のための契約をした。まだ最終決定ではないけれど・・・。銀行の融資がおりてお金を払って完了だ。1977.2.27に甲子園に産声を上げて27年、四半世紀が流れてここまで来た。一つの野望を持って塾を始めた。正直言って金儲けをしようと思ったことはないが、自社ビルへの夢はあった。卒塾生が何時でも気軽に遊びに来てくれる、何かあったら相談に来て貰える空間が欲しいと思っていた。黒柳哲子さん流に言えば、「賢治の部屋」。宮沢賢治流に言えば、「小宇宙空間」。そこにくれば心が和む。心が癒される。心が躍って夢が語れる何かがある場所にしていきたい。それが私が考える私塾の良さだと思う。3年ぐらい前に心友から「黙契庵」という木製の額を貰っている。お互いが黙っていても眼と眼を合わすだけで心が契り合えるという意味だそうだ。庵=いおりというのもいい。言葉の響きに何か和むもの癒されるものを感じる。僕にとっての小中高時代の恩師は、今でも永遠に恩師だ。めったに合うことはないが「おられる」と言うだけでも、有り難さとうれしさがある。自分も教え子にとってそうありたい。永遠に・・・。
(2004年 5月 20日 [木曜日])

五大陸への夢
 年来の塾関係の友達が、オークランドの大学を卒業して、今、デューク大学の大学院に行っている。年に3,4回、世界各地でスクーリングがあって、他はインターネットでレポートを提出して経営学を勉強している。今年の12月10日が卒業式で、ぜひ、出席して欲しいと要請されている。3年前の大学の卒業式の時はサンフランシスコへ行くのに、一番遠い方法をとってボストンからNY,シカゴを経由して車で6600キロをアメリカ横断をした。流石に、最終日のロスからシスコへの800キロの終点ではうれし涙が出てきた。実に日本列島を往復してもまだ余りある距離だった。今回はデューク大学の仲間が世界各国の経営者ということで、紹介をして私の夢である五大陸で遊書展をする足がかりをしてくれると言うことだ。出来る限り尽力をして行きたいと思っている。仕事の都合や諸々の事情がうまく合わないと難しい。もし、可能になれば天使がシカゴに留学中なので会うことが出来るかもしれない。死ぬまでに五大陸で遊書展をしたいというのが、私のビッグな夢なのだ。今日もその確認の電話入ってきたのだが・・・。
(2004年 5月 19日 [水曜日])

流れる夢。
 時は流れる、河は流れる、心は移ろう。『ゆく川の流れは絶えずして淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて留まりたるためしなし』鴨長明の方丈記の冒頭の文。そう大学の卒業論文のテーマ。全ては変化生成する。そこに無常観がある。この無常観を仏教的にとらえるか、あるいは現代的に変化成長として積極的にとらえるか、そのことによって生き方が変わるのかも知れない。どう受け止めて生きるか、何も考えないと言うのも一つの生き方かもしれないが、それは実に寂しいことだ。無情に繋がってしまうと思う。変化生成を肯定的に受け止めて、そこに自分の優情を見出して行く。その時、全ては流れていかなければならないのだと思う。停止してはならない。そして大切なことは流されないことだ。我が意を持って流れて行くことだ。この世はそんなにたやすいものではない。自分の意志どおりに動くものなどないのかもしれない。しかし、その中に我が意を我が想いをどれだけ入れていくか、そこにどれだけ自助努力をしていくかという生き方・姿勢が大事なのだと思う。
(2004年 5月 18日 [火曜日])

知性美への夢。
[女子十二学坊]女子12人による楽士ということなのだろう。このちょっと異国情緒のある名前もヒットしている条件かもしれないが、先ずなんといっても彼女達の実力だろう。中国の古典的な楽器を使ってモダンに演奏している所と日本の歌謡曲を演奏・アレンジしているのもいい。個人的にいうと彼女達の知性的な顔がいい。もし、欧米人が十二学坊とモーニング娘を見比べてとしたら、歴然と歴史・文化・知性の差を感知されてしまうだろう。彼女たちは中国でもアカデミックに音楽を勉強したということもあるだろうが、あの顔に出ている知性美は感嘆する。私は中学生の女子に知性美について時折、話をするがモーニング娘を例に出すと良く理解してくれる。知性美は勉強だけで磨かれ身につくものではないかもしれないが、教養・思考習慣・言動などが積み重なって内側からにじみ出てくるものだ思う。どんなに見た目は美しい女性でも一言しゃべったら、うんざりしてしまう人が多い。こんなことを言っていると「古い」といわれるのかも知れないが大事にしたいことだと思う。人間40歳を越えたら自分の顔に責任を持て!リンカーンの言葉だと聴いている?男も風貌(かお)だと思う。人間性の滲み出た・・・。
(2004年 5月 17日 [月曜日])

空海の夢
 靄の中に霊山、高野山の樹木が煙っている。新緑に雨が濡れそぼって美しさを際立たせている。一度だけ奥の院への参拝はしたが、それ以外は学校への往復で散策も儘ならずの状況である。
空海が開山したここ高野山は流れていつ空気が、なんとなく平和だ。ゆったりとした雰囲気、気が充満している。入唐1200年
空海はここに真言密教を開き即身成仏して、今もここに在るといわれている。1200年が経過して間違いなく科学は進歩した。それは加速度的に進歩しているように思われる。しかし、何処かで科学と人間の精神の進歩と進化のズレが生じて、歪が出てきているのではないだろうか。物質文明といわれ1200年前に比べると物質的なもの、物が人間の欲望をも遥かに超えて増大して来ている。それを追うように人間の欲が増大してきている。その際限の無さに、嘗ての仏教者・空海を始めとする人物は想像をもしていなかったことだろう。端的に言えば人間としての基軸が少しずれているのであろう。少しのズレも先に行くほど大きなズレになることは当然だが、それを人は自覚できているのであろうか。
空海が求めた夢を私たちは生きたいものである。
2004年 5月 16日 [日曜日]

少年の夢
 高野山高校の講師の資格で京大特進コースのスタッフとしてお手伝いをさせて頂いている。今日はその19人の生徒に気合入れの目標で、潜在意識の活用についての話をした。思っていたよりも感度良く生徒たちが聞いてくれたので、こちらも乗って話が出来た。その後の感想も良好で一安心した。6月にも一般の社会人の人を対象に話をさせて頂く予定で、今後、これを自分のテーマにもして進化・深化させていきたいと思っている。生徒たちの男子寮に泊まって、15人の生徒たちひとり一人と面談をしてきた。子供たちはいつもそうだが、彼らと一対一で話すと、本当にみんないいこばかりだと思う。やはり、それが人間の本性のように思う。彼らは京大特進コースで京大を第一志望に勉強している。その思いは真摯だ。考えてみれば15歳の少年の夢を持って望んでいる。これを現実化していってやるのが、教師の志事。教師の腕・実力・力量だと思う。悩みも語ってくれた、大小様々にいろいろな問題を抱えている。それが少年の由縁だろう。側面的にメンタルの部分で役に立ってやろうと思った。
2004年 5月 15日 [土曜日]

旅枕に夢を詠む
 「旅先の 雨友にして 周荘(まち)歩く 君を慕いて しばし佇む」 これは周荘で詠んだ短歌ではなく。帰ってきてから詠んだものである。大学時代、啄木の本を持ってよく夜汽車に乗ったことがあった。旅先で旅情と哀愁の中でいろいろと考えて見ようと思い立って・・・。実際の所は、何か考え事、心配事があって旅に出て考えるということは難しい。少なくとも私にはそれが出来ないということを、何度も体験している。考え事はその時mその時の瞬時のもので、空間・時間的移動よりも心の動きの方が遥かに早い。そして、切符を買った瞬間、問題はほとんど解決されている。解決されていなかったら切符は買っていないはずなのだ。私の一つの旅の楽しみは日常性と非日常性の格差にある。旅に出たら、根ッからの楽天的なのか、仕事のことも家族のことも忘れている。自然の美の中に浸ってその中に溶けている。そこで悩みを考えるなんて、もったいないことだ。また、悩みなど考えている暇がない。それは身近な旅と海外旅行の差かもしれない?
むしろ、旅に出る前、旅に出た後にそれらを考えることはある。いい意味での現実からの逃避、これも大いなる旅の効用・愉しみであると思う。隣の駅の見知らぬ町を歩いてみる。これも一つの旅として愉しむことが出来ると思う。旅は心で味わうものだから・・・。 「我一人 見知らぬ町を 彷徨える 夢道連れに 何をか求めん」
(2004年 5月 14日 [金曜日])

 夢を語る。
 「子供達に夢を語ることが出来るかどうか」これが生徒の前に立つ資格があるかどうかの一つの基準にしている。英語・数学・国語を教えるだけでなく、教育の大きな役割として夢を語ることが出来るかどうかは大きいと思う。先ず、自分自身が夢を持っていないと「夢」は語れないと思う。小さな夢から大きな夢まで、どんな夢でもいいから先ずは心に描くことがスタートだと思う。どんなことでも何でもいいと思う。私にとって旅も一つの夢だ。これが一つの自分自身の活動のモチベーションになるし、心のエネルギーになる。ストレス解消剤にもなっている。先に楽しみがあると目の前のイヤなことも、イヤのこととして映らない。私も最近でこそ、時間・お金・事情などが整ってきているが、ここまで来るのには随分と時間がかかった。でも、いつの日か、いつの日かきっと、と想いを持ち続けてきた。今回の旅は生徒たちにも多くを語っている。この子達の誰かがパイロットやスチュワデスになるかも知れない、商社マンになって世界を飛び歩くビジネスマンになるかも知れない。その動機付け、キッカケの夢に繋がる話をしてあげられたらと思っている。
(2004年 5月 13日 [木曜日])

ラーメンの夢
 中国風カップヌードルの食べ方。これは26時間の列車の旅で見聞し実体験したものである。日本人でもそのようにされている御仁もいらっしゃるでしょうが、中国ではほとんどスーパーサイズ、そこで面白いのが、具材を自分の好みで入れる所だ。ザー菜とデンブ状の干し肉を入れる。勿論、家庭内では普通に食べているかどうかは確かめてはいない。もう一つ、ビックリしたのはカップ焼きそばを湯切りせずに具を入れて食べる。これも試食したが、なかなか乙な味?まあお試しあれ。ザー菜、銀装パック入り50gが何と7円。これを聞いた瞬間に思ったこと。日本の商社は何とアクドイ、丸儲けをしているのだろう?人件費の名を借りて本当に何でも高すぎる。インドバス代2ルピー(5円)。中国1元(15円)。シンガポール60円。アメリカ地下鉄1ドル120円。イタリアが忘れちゃいましたが1ユーロとして150円。とにかく、ジャパンプライス イズ クレイジーというのは諸外国での定説だと思う。外国人観光客が日本に来ないで中国・韓国などのアジアに逃げているように思われる。日本人はこんなに外貨を海外に撒き散らしてもいいのだろうか?まあ、こんなグチをいうよりもラーメンに夢を持っていろいろな食べ方をやってみよう。
(2004年 5月 12日 [水曜日])

21世紀の夢
13日間の旅を終えて、今日からは現実の日常的な生活に戻る。
昨日も朝、釜山を出て夜には授業をした。考えれば物理的には札幌や沖縄よりも韓国の方が近いのだ。1903年ライト兄弟が飛行機を発明してから101年、世界は近くなって来た。それは心的距離においても言えることだ。これから益々近くなって何処まで進化して行くのだろうか。20年近く前、日本とアメリカ西海岸が21世紀になると45分で行けるようになると言う話を聴いたことがある。それは大気圏を脱出して飛行するということであった。今、おそらく可能であるけれども商業ベースに乗らないのだろう。文明文化の進化と精神の発展、これが21世紀の課題だろう。文明が発展すると医者と弁護士が儲かるという一説がある。犯罪と病気が増えるということでそれは決して好ましいことではない。そして、そのとおりになっている。教育、人間教育などというと臭いという人も多いかもしれないけれども、21世紀の大課題だろう。21世紀の人類の夢は何だろう。私はささやかながら「愛と平和」をテーマにボランテイアに取り組んでいる。
(2004年 5月 11日 [火曜日])

旅の終わりの夢
 釜山から関空へ。今回ほど早く家に帰りたいと思ったことはなかった。7日に西安で天使とsee you agein してからというものは旅の寂しさに襲われた。いつも感じることだが、旅の良さは非日常的なものにあるとはいえ、それは帰る家があるという前提だ。本当の放浪は私には無理だということを強く悟った。わが子たちは次男がロンドンに勤務、長女がアメリカに留学。これは大変なことなのだと思った。確かに一日あれば帰れるという現代だが、人の心の微妙さはそんなものではないように思える。44回目の旅の終わりに、今回は最高の喜びと、そして寂しさを覚えた。でも懲りない私は次なる旅への夢を飛行機の中で考えた。大韓航空のマップを見ていると、眼に入ってきたのがフィジィーとハバロフスク。全く対照的な場所ではあるが、心が行って見たいと私に語りかけて来る。帰りを待ってくれている家族・友・仲間、有り難い事だ。私の100回への旅はまだまだ半ば前、これからも永遠に続いて行く。旅は私にとって、もう一つの人生なのだ。 
(2004年 5月 10日 [月曜日])

夢エネルギー。
 上海から釜山へ。今回の旅ほど、天使と西安で別れてから後は、こんなに家に帰りたいと思ったことはなかった。上海の空港で名古屋行きの変更を申し出たほどだ。(残念ながらディスカウントのチケットのためできなかった)
 梵魚寺を一人歩いた。西安に大袈裟に言えば心を置いてきた様な気さえする。一人でいると無性に寂しさがこみ上げてくる。この寂しさは何処から来るのであろうと、自分自身を疑った。この旅にあっては私は間違いなく少年になっている。どこか不安定ででどこか危なっかしい精神状態である。でも、自分の弱さ・寂しさ、表裏を見つめるにはいい機会を与えられたのかも知れない。
 上海・釜山と雨が続く。それはまるで私の寂しさを物語るような涙雨のような気さえするのだが・・・。この所在不明の切なさも旅独特の感慨であるようにも思える。明日はいよいよ家族の待つ日本。放浪と旅の違いは「帰る所」があるかどうかの違いだ。旅の良さは帰る所があるからこそ愉しめるものなのだ。次男は勤務でロンドン・長女は留学でアメリカ。変なところで「えらいなぁ」と感心してしまった。私にはやっぱり日本が一番いい。しみじみとそう思う旅が終わろうとしている。想い出は辛い時の支えになる。旅は私のエネルギー源だ。そして、夢もまた、私のエネルギー源なのだ。愛も心も遣うほど湧いてくるもの。夢もそのように湧いてくる物であって欲しい。
2004年 5月 9日 [日曜日]

異国の町で夢を馳せる
 中国一の水郷の町、周荘を歩いた。ここは2年前に天使と蘇州で初めて出会って、僕が鑑真を訪ねて揚州へ行き、天使が訪れた町である。一人で水郷の町を歩き、天使は何を考え、何を観て、何に感動したのだろうかと想いながら歩いた。西安での想い出は夢のように過ぎていった。敦煌での旅は、一生に一度の体験のような旅だった。その格差の大きさに、小雨模様の水郷は何処か寂しさが漂った。上海の周辺、郊外には市街地では想いもよらない美しい古刹の町が点在している。12億の民。広大な大地。そして、何千年の歴史とそこから生まれ出た思想。その一つひとつが私にとっては魅力だ。ここ中国には得体の知れないエネルギーがある。20年前の旅で出会った趙さんとの出愛が会って、天使とであった。日本でも中国でも何処の国であっても、残念ながらいい人もいればそうでない人もいるのは確かなことだろう、しかし、私は極上の人と出会っている。そう、それは私の人生、私の価値観、考え方すら変えてしまうほどなのだ。それは私が『旅』に求めている究極のものなのかも知れない。旅はもう一人の自分との出愛であり、発見だと身に沁みて異国の町で感じた。何時でも何処でも夢は描くことができる。夢を求めて私の人生はこれからも地球を、私の心の中を彷徨って行くのだろうか・・・。
2004年 5月 8日 [土曜日]

夢を与えてくれる人
 朝、空港までわざわざ僕のために、ただ1時間もの道程を送ってきてくれた。僕はおそらく何も語れないだろうことを予測して、思い出の地敦煌の絵葉書に感謝のメッセージを書いた。そして、空港のロビーでハグをしてサヨナラをした。「もう、大丈夫だから、どうぞ、帰ってください」と伝えたが天使は最後まで見届けてくれた。お蔭でチェックインの時に僕がトラブッタ時、中まで入ってきてヘルプをしてくれた。僕はとうとう最初から最後まで、この西安の地では10歳の子供のように天使のお世話になった。ある形容をすれば、足手纏いとい言葉すら当てはまるような気がする。足長おじさんと主人公ではなく、聖母と駄々っ子のような9日間だった。思えば天使と僕のスキンシップは、昨夜、ホテルの前でSee youをする時にケヴィンと握手した関係で、天使にも握手をしただけである。本当に聖母に抱くような畏敬の念があってそのような行動が自然になってしまう。それが二人にとってもごく自然な行為であった・・・。天使は僕にとって、夢を与えてくれる人なのだ。
(2004年 5月 7日 [金曜日])

愛と平和の夢
 西安にて誕生日を迎える。安定門(西門)、いわゆるシルクロードのスタート地点としての門に立つ。何千年という歴史の中で何千万という人間がここから西に向かい、あるいは西からここへ到着したのだろうか?中国はそんな悠久の歴史を考えさせるところである。この旅の記念に、柔らかい金=シルク、絹の道といわれて由縁のシルクの絨毯を買い求めた。莫高窟の天井の壁画をモデルにしたデザインのものを買った。上代は二万元、日本円にして30万円。この500段という約70センチ四方の絨毯を一枚織り上げるのに、一人の人が1年半かかったという代物。その話にロマンを感じて誕生日ということもあって奮発した。その丹精された一織、ひとおりに魅入られてしまった。
 天使とホテルで待ち合わせをして誕生パーティをして貰った。何と天使は、あの鉄観音を入れる茶器一式を買って来てくれた。本当に信じられないことだ。私が西安での一日目に一緒に喫茶店で飲んで、感激していたものを一日かけて買って来てくれたようだ。何と感謝していいかわからない。自分の英語の先生と言うことでアメリカ人のケヴィンと一緒に来てくれた。何とバースデイケーキも用意してのことだ。私は当初は二人でロマンチックなバースディを思っていたのに、何と中国人3名、日本人2名、アメリカ人1名の国際色豊かなパーティに成った。中国語でハッピィバースデイの唄を歌って貰った。ロウソクの灯を消す時、私は素直に「人類の愛と平和」を祈った。自分の幸せを願う気持ちなど全く起きなかった。こんな気持ちにさせてくれる天使に心から感謝をした。Thank you so much Angel of moonlight!!!
(2004年 5月 6日 [木曜日])

夢が来る。
 昨夜、10時の便で敦煌から西安に戻る。西安交通大学、天使が講師をしている大学の付設の南洋大飯店(ホテル)に戻る。敦煌の空港でも見納めのように月が煌煌と輝いてくれて、飛行機も天使が窓側に座らせてくれて、ずっと見つめていたものがあった。十六夜の月がジェット機と一緒に私を追いかけてきてくれたのだ。そして、何とホテルの部屋にも月の光が差し込み、横たわったベッドからも月が眺められた。もうここまで来ると「私にツキ(月)」が周ってきているとしか思えないほどである。そしてこのツキは天使が運んでくれているものだと思う。「出愛は神様からのご褒美」それは人為の及ばない域もあり、自力だけでは儘成らないこともある中で、幸運を運んでくれる人との出愛といのも、間違いなくあるように思える。夢求で求めて行くというのではなく、向こうから来るのだ。そこには求めるマインドというのも確かにあるのだろうが、宇宙の中心からエネルギーが全生命体に発しているように、幸運やツキが来るということもあるように思える。それを受容できる器としての自分作りも大切なことではないだろうか。天使は私を素直にさせてくれる。その素直さの中にツキが来ているように思える。
(2004年 5月 5日 [水曜日])

宙(そら)で観た夢
 ここは陽関(ヤンガン)。長安に都があった当時にほぼ西の端、最果ての地としての関所だった所。広大に拡がる砂漠の大地に大地にただ呆然とする。空は澄みあがり青空が拡がる。遥か彼方に山が見えるような気がする。ここまで来ると観光客もちらほら。広さからするといないのに等しい。幸運にも昼下がりの時間帯に差し掛かって誰もいない状態になる。この砂漠の大地に天使と私と二人だけ。青空と黄土の大地、その中を歩く。何故かこの空間にあって音楽が聞きたくなって、天使が持っているMDを聞く。「女子十二楽坊」の曲。曲名は不明?不明というよりもそんなことは問題外で、大地での響きを求めた。何度も聴いたはずなのに、全く真新しく初めて聞くような曲に聴こえてくるのはなぜだろう。何時何処で何を誰と、私の心がどのように「在る」かによって、それは全く違ったものになる。醜いものさえ美しく見えるような気さえした。心が、自分の主観が全てを決めてしまうという、良い面のことを心から痛感した。大地に二人になった瞬間、それは自分の視界にあってのことだが、宇宙のポケットに包まれたような気がした。それは天使の胎内に浮遊するような安心感があった・・・。楽しい夢を見たような、美しい夢を見たような安らぎの中に包まれた。空想の世界の中で、宇宙の真ん中で見たような夢だった。
(2004年 5月 4日 [火曜日])

夢砂漠
 「菜の花や月は東に日は西に」蕪村の句だったと思う。今までは何処かピンと来ないものがあったけれど、鳴沙山の大砂山に立って『砂原や月は東に日は西に』の大光景に接した。
 私が立っているところは砂山の頂上、眼前にも見事に美しい砂山が聳える、その稜線の美しさは想像を超える。夕日を受けて西側は砂が輝きその粒子の一つ一つが金色の光を放つ。東側はシャドウになって対比的な美しさを映す。砂が造形した優しい稜線を境にして金色と銀色の世界が神秘的に輝く。ここ敦煌の夕刻は遅い、もうかれこれ時は9時を刻もうとしているのにまだ静寂の世界は暮れない。西側の夕日が砂山の向こうに七色の輝きを示して変化して行く。大自然は大芸術家だと認めざるを得ない様を刻一刻と変容させていく。東は青空が序々にその色を藍に染めていく。白い雲が西日を受けてピンクに染まっているものもある。夕日に眼を奪われている内に、砂漠のお月様がぽっかりと遥か彼方の宇宙に浮かんでいた。空の色と月明かりが安らいで調和して、そこに在った。西の宇宙と東の宇宙の光景がハーモニーを奏でて、それはまるで月光と陽光の協奏曲を優しい調べてピアノが一音一音弾かれるように溶け合っていく。地球の何処かで毎日毎日、大自然は「平和の賛歌」を奏でている。人類の心がこの自然の美しさに溶けたら、争いはなくなり一つになることができるはずなのに・・・。そう思わせるほどの美しさが眼前に拡げられて
いった。憧れの月の砂漠。2年越しの想い。去年の連休にきていたら時期が完全に外れていた。13夜、14夜、徐徐に天気が快方に向かっていたが、日本でも釜山でも週間天気予報では期待ができなかった。しかし、我が想い天に通ず。一番の快晴に恵まれた。『天に月光、地に月光の天使、我に愛』が叶った。敦煌の気象は砂漠地帯の典型で、ホテルでの予報も9℃〜30℃だった。少しは厚着をしてきたが天使が寒いと言い出した。もう,周りの人たちは下山して砂山の頂上には二人だけになっていた。砂山の大きな月が銀色から輝きを増して金色に変わってきた。期待していた以上の美しさに私の心は震えた。確かに寒さもあったが、おそらくこの邂逅は人生に二度とはないものと思って長居をした。ゴビ砂漠とタクラマカン砂漠の中央部というかつなぎ目あたりに位置して敦煌は存在する。この地球の真ん中にいるような思い。こに私はペットボトルの水で「愛」と言う字を記した。そして、天使と二人になった砂山の頂上で月光を浴びた。月の光は優しさの象徴であるかのように感じられた。何千年、何億年前も今も、その美しさを変えずに月は輝いている。それはメルヘンと言うよりも神秘的であった。天使の顔が月光に溶けて透けて見えた。この天使の心も純粋で、天真爛漫で自然のように美しい。この感動を誰に感謝しようかと思った。煌煌と輝くというのはこのような情景なのだろうと初めて体験した。静的で静寂で安心感に満ちた月光の宇宙の中で私は夢を実現した喜びに浸った。
 午前中は莫高窟へ行った。世界遺産に相応しく、人間の信仰心というか信念というか、信じ難き力に畏怖を感じた。
 
 
(2004年 5月 3日 [月曜日])

夢見心地
 しっかり者の天使様は昨夜のうちに、今日の手配を済ませて昨夜のドライバーを案内役に抜擢したようだ。朝9時にホテルに迎えに来た。2,3箇所に立ち寄って昼食を調達。一路、砂漠へ突撃だ。敦煌から75キロゴビ砂漠の真っ只中の玉門関、ここは漢朝の時代と言うから2000年以上前に西の最果ての地として関所があった所。そして北京から連なる万里の長城の端。河倉城遺跡もローマ時代の城跡とは違って砂漠の中にある荒涼感が何処か痺れる。ゆっくりと見学した後、砂漠の中のアスファルト道路の脇に車を停めて、天使が調達した白いパンの中に壜詰めミンチ肉を挟み、スパイシーな香辛料を挟んで、水を飲みながら食べる。こんな場所に在っては何を食べても旨い。子供を労わるようにして天使が食べやすいように美味しくしてくれる。次なる目的地は国営の地質博物館。ここは日本のガイドブックには案内されていない所だが、私には一番良かったといえる場所だった。博物館の興味よりも、ここの車に乗り換えて案内して貰った場所が、もっとも砂漠らしく広大な風景を見せてくれた。風景と言うような代物ではない、何千年も前にタイムスリップしたような寂寥たる風景に私は酔いしれた。天使がここの風景がいいといっただけのことは十分すぎるほどあった。5,6人の訪問者も立ち去り。砂漠の真ん中に天使と私と駱駝とその従者。小一時間ほどの距離を天使は歩き、私は駱駝に乗った。途中、10分ほどは駱駝に相乗りをして広大な風景の中に私たちは溶けていった。この時空間の中、私は夢見心地でまるで砂漠の中を歩く王子様と王女様の気分で舞い上がっていた。地球の真ん中で心が高揚して我を忘れた。砂漠の砂の微塵の粒子に化したような気分で全てが一つになった。あるいは無に帰したような気分だった。この瞬間、私は全てのものと一つになっていたような気がする。天使の心がそれほど純粋で大らかで包み込むものを持っているのかも知れないと思った。私は永遠に溶けてしまってもいいとさえ感じた。
 夕方6時ごろに敦煌に帰ってきた。約10時間、タクシーのチャーター代が300元(4500円)。信じられないこの差こそがジャパンプライスのクレージィーさそのものなのかも知れない。この旅は天使がいるからできる旅であるとつくづく感じさせられた。
2004年 5月 2日 [日曜日]

夢、敦煌に辿り着く。
 午後8時20分。遂にやって来ました。ゴビ砂漠とタクラマカン砂漠の中央に位置する「敦煌」。その昔、長安(西安)に都が在った時に西の果ての関所、あるいはシルクロードの要所となった砂漠の町。汽車は柳園という町に着いた。薄闇の中、相乗りのタクシーで130キロ先の敦煌の町に移動する。途中はもう砂漠の世界、暮れてゆく中の視界が徐々に紺から黒へと変わろうとしていた。同乗した中国の女性がプロの歌手ということで車内で、流石に巧いと思う歌を歌ってくれた。日本人の私に唄を歌ってくれといわれて、私は「この広い野原いっぱい」の唄を歌った。その気分だったのだと思う。車は砂漠の中を走り続けた。今までに見たことのない景色がどんどんと走り去っていった。何故か初めての所へきているという感慨が、私の胸をドキドキさせる。ここ敦煌での旅程は天使任せだから私は安心していられる。海外に出てこんな安心感の中で旅ができることは在り難い。英語が天使との意志を結ぶ言語、母と子供ほどの差がかえって、相手に委ねることにつながって、何故かうれしい。明日からの砂漠との出愛が楽しみだ。
2004年 5月 1日 [土曜日]

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